管理人プロフィール


サイト運営管理者のプロフィール

  • 横田キリストの教会
  • 住所:東京都福生市熊川1148-3
  • 伝道者:野々垣正信
  • Email: info@japan4christ.info

管理人の誕生からクリスチャンまで

サイト管理者の野々垣は様々な経験をしてクリスチャンになりました。非常に一般的?な宗教嫌いな日本人だったと思います。悪いこともかなりやりました。堅物な人間ではありませんでした。そのような人間、野々垣正信をここで紹介します。

読者の皆様、こんにちは。「聖書ーキリストは人生を変える」サイトの編集者の野々垣正信です。生まれは東京都江戸川区一之江です。1956年生まれの57歳です。江東区にある江東商業高校を卒業後、東京経済大学の短大をでてレストランで3年間働いていました。大学生活でまたレストランで働いていた期間、様々な悪に手を染めました。本当に自分勝手な利己的な人間でした。
その頃、ちょうどファースト・フードが出始めて飲食業界も大変な時期でしたね。現場で働いているわたしのようなコックには分岐点を与えてくれた時期でもあったのです。多くの美味しい冷凍物の食品が出始めて、プロの料理人は二分化すると思われていたのです。料亭、ホテルのような所で超一流になるか、それ以下になるかです。際立った料理の才能もないとわたしはコックの道を半ばあきらめました。それから後の3年間は荒れた生活が続きました。ほとんどアル中でした。アル中にならなかったのが不思議なくらい。年齢も24歳になっていたので「この辺で何か方向性を決めない」と思い(中学の時、英語が好きだったので)アメリカ留学を決めました。でもお金がなかったのでバイトを3つもやりながら地を這いながらでも働いたのです。そんな時に不幸が次から次へと起こりました。まずは交通事故、顔の骨2本折って、頭を50針もぬう大怪我でした。車が横転して運転席側に横倒しになりわたしの頭はコンクリートとこすり合って頭は傷だらけです。幸い助手席にいた友人にはかすり傷一つなかったのです。(友人がかすり傷一つ負わず助かったのは、わたしには今でも奇跡にしか思えません。)1ヶ月間入院で、治療に数ヶ月。その一ヵ月後、育ての母が横断歩道で左折の大型トラックに巻き込まれて交通事故で即死。またその一ヵ月後、仕事中に左手骨折。その三ヵ月後に盲腸の手術。また一ヵ月後に鼻の手術。人生のどん底を少しは味わいました。これ以上悪くはならないと開き直って、一人残る父親を残し後ろ髪をひかれる思いで1984年に渡米したのです。続きは後で。(記載日 2013年12月28日)

悪いことが次から次へ起きた時、天につばをかけたくなるような心境で思わず天を見上げてしまいました。また同時に神の存在、自分以上の目に見えない力の存在を意識しました。「まだ死んではいない」と感謝したくらいです。病院入退院を繰り返しながら人生とは何?と心の底から真剣に考え始めたのもこの頃です。そんな時期にアメリカ留学してしまうのですからちょっと波乱万丈です。留学の手続きはすべて一人でやりました。(ちょっと世間知らずです。)英語もまったくわからずロス行きの飛行機に乗り、右も左もわからないままロスの大空港に夜8時に旅降りたのです。日本語を話せるような人は回りにいません。それでも、そこから予約したホテル探しをしなければなりませんでした。うろうろ迷子になりながらも公衆電話を見つけ、しどろもどろの英語でホテルに電話をしたのを昨日の事の様に覚えています。
その晩、お腹すきすきだったわたしは、夕食をその宿泊したホテルで取りました。英語が読めませんから何もわからず、(お金もあまりなかったので)一番安いものを「これ!」と指で示して注文しました。それは何とメキシコ料理のチョー辛いソースがかけてあるチキンソテーでした。辛すぎて食べられず半分以上残して、腹ペコのまま泣き泣き寝ました。翌朝、朝早く6時の飛行機に乗ってオハイオ州コロンバスに降り立ったのです。自分がどこで降りていいのか?なんて訳のわからないことをその飛行中考えていました。飛行機に乗るのも生まれて初めて、やることなすこと初めてのことばかりで最初からドタバタの留学生活が始まりました。空港には留学大学先の先生がわたしの名前を掲げて待っていました。やっと一安心。創造主なる神はこんなわたしを見守っていてくださったのです。今でも驚くばかりです。続きは後で。(記載日 2014年1月8日)

管理人の最初の信仰

私は頑固者で「見なければ信じない」といい続けてイエス・キリストを否定しつづけたのです。頑固者の私がなぜ信じるようになったかを説明してみましょう。
今、私は神もイエスも見ることは出来ません。 実際に会ったこともありません。イエスがどれくらいの背格好だったかも知りません。しかし、私は天地万物を創造された唯一の神がイエスを遣わされた、というイエスのことばを信じます。「私が道であり、真理であり、いのちなのです」というイエスのことばを信じます。なぜ私は信じるのでしょうか。私自身の個人的な好みによって信じるようになったのではありません。 またある特殊な性格を持っていたから信じるようになったのではありません。人それぞれ信じるようになる段階がありますが、私の場合、次のいくつかのステップを踏んで信じたのです。
多くの日本人にとって「天地万物を創造された神」という概念は、非常に受け入れがたいものです。私も例外ではありませんでした。多くの疑問がありました。どんな方法で創造したのか。もし神がいるのなら、今どこにいるのか。そんな葛藤の中で、まずイエスのことばを読みました。読んでいるうちに、 「少なくともこの方は嘘をつこうとして話しているのでない」と思いました。
そのうちに、イエスの人格を見る限り「この人は嘘はついていない。真実を言っている」と結論になりました。でも、ここで直ぐに聖書が示す信仰を持ったかというと、そうではありません。イエスが言っていることは、理論的に考えても道義的に考えても、道理は通っているという結論でした。 しかし、イエスが言っている神の存在をたやすく受け入れることは出来ませんでした。それで、イエスが言っている内容と現実の社会、自然界、宇宙の営み、人間の行いなどなど比べてみたのです。人間は本来、現実を見て「社会はこんなものだ」とか「自然の法則はこうである」とか判断するわけですが、 いつも人間の理解にはどこか欠けているところがあります。その欠けているところをイエスは満たしてくれたのです。だから、真理を語っていると確信を持てたのです。しかし、それでも私の信仰は理論的に筋が通っているというだけの頭でっかちの信仰でした。心からの信仰ではなかったのです。人間が成長するように、神への信仰も成長するものです。その成長に従って神をますます知るようになるのです。

管理人の霊的成長

管理人の最初の信仰は心から信じるものではありませんでした。実践が伴わない理屈ばかりの信仰でした。しかし、神は管理人の頑な心を砕いでくださいました。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7章24節ー27節)

聖書は読んでその内容を理解しても実践しないから、何をやってもうまくいきません。キリストが言っている通りです。聖書をいくら読んでも心が喜びで満たされることはないのです。安らぎと平安で満たされることはないのです。そんな日々、年月がどれほど続いたでしょうか。このような霊的な葛藤の中で管理人はますます苦しむようになっていきました。上記の聖句を読んでも、管理人の心には響かず右の耳から左の耳へと抜けて行ってしまったのです。キリストは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言いますが、管理人は聞く耳を持っていなかったです。いつもモヤモヤした空虚感がありました。こんな状態では霊的な成長などありません。むしろ悪魔であるサタンに騙され続けていたのです。そんな暗闇の中で管理人は日々祈りました。「主よ、教えてください」と。上記の聖句が示すシンプルな真理にやっと気づいたのです。管理人は愚か者でした。その愚かさにやっと気づいたのです。上記の聖句で示されているシンプルな真理に目が開かれたのです。

携帯電話は本当に便利なものです。管理人も日々の生活や仕事で使っています。携帯のマニュアルと仕様を隅から隅まで読みその使い方すべてを理解したとしても、実際に使ってみなければ携帯の良さを知ることはできません。使って初めてその便利さを体験できるのです。キリストの教えにも同じことが言えます。

最初、管理人の信仰は頭でっかちの信仰でした。このような信仰は、本当の信仰ではありません。管理人は聖書を教えることは出来ても偽教師に過ぎなかったのです。実践が伴っていなかったからです。上記の真理を知ったからと言って、霊的な成長がここで止まることはありません。管理人は死を迎えるまで神の御国と義を求めて生きていくます。それがクリスチャンがやるべきことだと信じています。使徒パウロはピリピの手紙の中で次のように書いています。

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。 (ピリピ3章10節ー16節)

クリスチャンの成長に終わりはありません。定年退職、隠居することはないのです。自分の罪を知り神の恵みに感謝して神の御心を求めて生きていくことが求められていると思います。

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