罪は人生の厄介物

困惑
Spread the love

人間は罪の奴隷?

人間は自分の欲望に操られて苦しむことがあります。この状態をキリストは罪の奴隷と表現しています。 ヨハネ8章31節ー34節をクリック。

実は、人間の罪は心の中にある欲望から始まっているのです。自分の心の欲望にかられて女性にわいせつな行為をしたりする。時々、警察官や政府の官僚、あるいは国家議員がスキャンダラスなことをやったというニュースを聞きます。でもこれは氷山の一角にすぎません。


自分の心をよく見つめてみましょう。ドロドロした感情、思いはないでしょうか。他の人に対する悪意はないでしょうか。そのような思いをもっていることに対して、葛藤はないでしょうか。正しいことを行いと思っても、出来ないことがあります。わかっていても、ついつい悪いことをやってしまう、思ってしまうーそのようなネガティブな感情や行動は人間を苦しめます。この苦しみを次の聖句が語っています。 ローマ7章15節ー20節をクリック。


厄介物は人間の罪

政治の世界ではいろいろな厄介物があります。尖閣諸島の問題や沖縄の普天間基地、原発の問題など処理しようにも処理できないことですね。実は人間が抱えている一番の厄介物は自分自身の罪なのです。人間の性(さが)ともいえます。人間は自分の2本の足で立ち、自立して生きていきます。自分自身で切り開いていかなければならない道が、学校であれ会社であれ、どこにでもあります。何らかのかたちで、自分自身を出していかないと前には進めません。宿題を他の人、たとえば親にやってもらうわけにはいきません。そこでどうしても自我がでてきます。自己中心の考え、思いが生まれてきます。さらには、この自己中心が原因で他の人とぶつかったりするのです。本当の所、誰も争いなど求めていませんが、お互いが自己中心ですから、行き着くところは衝突です。個々の人間の衝突も、国同士の衝突も何ら本質においては変わりはないです。


ところが、ほとんどの人は、この自己中心という病に気づきません。気づきたくはないのです。気づいた所で、どうすることも出来ないので忘れます。自己中心を認め否定することは、自我を捨てること、自分自身の人生、存在、過去を否定することにつながります。そんなことしたくもないし、考えても結論は出ないから、翌日にはいつもどおり自己中心で生きるのです。あまり表立って自己中心を出すと嫌われますから、嫌われない程度に小出しにするのです。これが人間社会の縮図でしょうか。


この厄介物を取り除くにはどうしたらいいのか、人間には出来ないようです。この世から自分自身が消えてなくならない限り、問題は消えません。私たちの心に住み続けるのですが、、、、


私には、引きこもりの息子さん(32歳)をもった友人がいます。家ではテレビゲームばかりやっているそうです。私の友人も親として何をやってあげたら良いかわからないそうです。高度成長時代のつけが、引きこもりのような形で出てきた、とある評論家たちは説明しています。


自己中心ウィルス

しかし、私は高度成長が根本的な原因ではないと思います。引きこもり、青少年による凶悪犯罪、フリーター、ホームレスは、かぜの病気でたとえれば、咳、のどの痛み、高熱、頭痛のような症状です。かぜの根本的な原因はウイルスです。このウイルスを完全に退治しない限りは病気は続きます。社会の病気のウイルスは、人間の自己中心的な考えです。人は、いつからか「自分だけよければ他人はどうなってもいいんだ」と自分中心の考えに走り、自我の確立が一番大切なものになりました。


受験戦争は、幼い子供が最初に経験する「自己中心ウイルス」です。これは感染症ウイルスですから、周囲にいる子供たちは、全員感染します。子供はたちはお互いに思いやることもなくなり、他人を人格ある人間として扱わなくなります。実は、このウイルスを持ち続けている人々が、現在、社会の中枢を担って、しかも10代、20代の子供を育てているのです。当然、この「自己中心ウイルス」は、親から子供へと感染していきます。ところが、困ったことに親も子供も「自己中心ウイルス」に感染しているという自覚がないのです。


少しでも自覚がある人たちは、そのような競争社会からの逃避を決めて、ある人はフリーターになり自由気ままな生活を親元を離れず暮らすようになったのではないでしょうか。しかし、これらの人たちは「自己中心ウイルス」を除去したのではなく、むしろこのウイルスの影響をさらに受け、もっと自己中心的になってしまったようです。また、ある人はこのような社会に嫌気がさして、社会との接点を絶ってしまったのです。これが人間嫌いを極めた引きこもりです。


私たちは罪という厄介物を取り除きたい、罪の奴隷状態から抜け出したいのですが、自分の力や努力ではできません。イエス・キリストの教えに聞くのが、一番の早道だと、私は思います。

次のページも読んでみてください。

Read more

コメントを残す

Copyright © 2019 聖書入門-キリストを受け入れ人生が変わる

時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた(ルカ22章14節ー23節)。

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 ・・・「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。(ヨハネ8章31節ー34節 )

わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。(ローマ7章15節ー20節)