マタイ5章6節-義に飢え渇く人

正義
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「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」(マタイの福音書5章6節)

私がクリスチャンになる前、私の職場の上司が人間関係の妙を教えるために、次のような言葉を言いました。「人にはそれそれ正義がある。」人にはそれぞれ言い分があり、自分なりの大義名分があるというのです。これは個人レベルでも国家間でも言えることですね。中国でも韓国でも日本でもロシアでも、それぞれの正義、大義名分があるのです。(最近の国家間の争い、紛争がどこに落ち着くのか、またはもっと広がるのか興味津々です。領土問題はどうでしょうか。)


しかし、上記の聖句でキリストが言っている「義」とは、一人の人間や国家の正義ではありません。むしろ神の正義、つまり神が正しいことを行ってくださるのを待ち望んでいる人は、幸いであり満たされらると教えているのです。


この世の中で、義に飢え渇く意味

現在、物質的に恵まれている日本に住む私たちは「飢え渇く」経験がないので、キリストが言っている真意が私たちの心に伝わっていないかもしれません。1世紀には、貧富の差が今よりも大きく、多くの人々が餓死しました。「飢え渇く」という表現が身近にあった世の中でした。さらに中東は砂漠地帯も広がっています。そのような場所では、まさに一滴の水でも欲しいという渇く経験をした人は少なからずいたでしょう。そのような人々にキリストは、神の正義に当てはめて「飢え渇く」という表現を使っているのです。おへそと背中がくっついてしまうほど飢えている、灼熱の太陽の下で砂漠を歩いていると想像してみてください。正義に対して飢え渇くとは、人間の心の奥底から求める叫びです。願いであり、祈りなのです。


この世では小さな悪、大きな悪が横行しています。そのような世の中で、しばしば私たちは生きることに空しさを感じるかもしれません。また、このような邪悪な世の中では、正当な裁きなどないと思えることがしばしばです。一体、何が本当で何が真実なのか、まったくわからないことだらけです。


この世は悪魔によって支配されていると聖書は教えています。悪魔は人間をだます専門家です。あらゆる手段を使って、人間から神から離れさせ、人間自身の正義を求めさせようとします。その結果として、人間同士が争うことだったり、国同士が争う戦争につながっていくのです。小さい視点からも大きな視点からも、人類の歴史は争いの歴史といっても過言ではありません。このような邪悪な世の中だからこそ、神の正義を求めるべきだと私は思います。罪とは?も参考に。

神によって創造された私たちは、本来、全員が神のこどもです。しかし、人間は悪魔によって神から離れて神の義を求めなくなりました。イエス・キリストは私たちに「わたしのもとに来なさい。そして神の義を求めなさい」と招いているのです。

マタイ5章5節-柔和な人

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時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた(ルカ22章14節ー23節)。