健全な自己評価

セルフ・イメージ
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自分は他人からどのように思われているだろうか、どのように評価されているのか、と気になったことはないでしょうか。自分に対する他人の評価を聞くのは、少し勇気が必要です。真正面から自分自身と向き合う強い気持ちが必要です。しかし、同時に自分自身をどのように見ているかという自己診断、自己を吟味することも必要でしょう。

健全なセルフ・イメージを持つためには?

自分のセルフ・イメージが、他人の評価やイメージと差が非常に大きいと、健全とは言えません。能力がないのに能力があると思い込んでいる人は、プライド高き人間であり周囲の人から煙たがられるでしょう。その逆も真なりです。劣等感で凝り固まった人も周りを暗くするだけかもしれません。


しかし、100%自分自身を客観的に見るのは不可能なことです。時々、信頼できる友人に意見を聞くのも大切です。このコラムでは健全なセルフ・イメージとは、どのようなものかを読者の皆様といっしょに考えてみます。多くの方々が、2つの方法でセルフ・イメージを変えようとしているようです。(1)外見を変える。(2)自分の行動や言動や気持ちを肯定して、(たとえ悪いことでも)自分を正当化していく。しかし、私は、健全なセルフ・イメージのために、次の3つの要素が必要だと思います。非常にシンプルです。

自分は、神によって愛されている

親が子供を愛するのは極自然なことです。親に愛されて育った子供でも、心が健全に育つとは限りません。というのも、人間の愛は、得てして屈折している場合があるからです。愛が過度の期待感であったり、過保護と思われる溺愛であったりします。しかし、愛を受ける子供も、どのようにその愛を受け入れて良いかわからなかったりするのです。


わたしたち人間は、無条件に神に愛されています。悪人にも善人にも無条件に自然の恵みを神は与えています。大自然の中で動植物が育つために神は、太陽を昇らせ恵みの雨を降らせるのです。わたしたちも自然の中に生かされています。しかし、わたしたち人間は、神に似せられて創造されました。他の動植物以上の存在として、この世で活かされているのです。


この神の愛を知る時、自然に感謝の気持ちがわいてきます。感謝の気持ちは、健全なセルフ・イメージのために非常に大切だと思います。

謙虚になろう

神に感謝する気持ちは、謙遜な気持ちを促します。自分は一人の力で生きているのではない、と気づく時、謙虚にならざる得ません。わたしたちにんげんは、神の愛と恵みを受けてこの世の中で生かされているのです。


謙虚になることは、ただ単に控えめになるという意味ではありません。「わたしにはそんな大切な役目など務まらないし、何の能力もないから」という遠慮でもありません。劣等感でもありません。謙虚とは、自分の能力、地位、財産が神から与えられているという感謝の気持ちから湧き出てくるものだと思います。謙虚について詳しい説明は、控えめ、謙虚という美徳と聖書の教え を読んでみてください。


神の愛によって自信を持つ

自信をもつことと謙虚さは、相反するものと思われがちですが、共存すべきものです。但し、自信は自分の能力や力にあるのではありません。神がすべて良い恵を与えてくださっている、と知っているので自信が持てるのです。神の愛は、わたしたち人間の枠組みを超えてすべての人たちに注がれています。問題は、その愛にわたしたち人間が気づいていないことだ、とわたしは思います。神の愛に気づく時、自然と健全なセルフ・イメージがわいてくるはずです。


人間が考えることは複雑怪奇です。少し動物と似ているところもあります。たとえば、ある人は、本当の自分よりも強がったり能力があるように見せたがります。(確かにこのような動物、昆虫はたくさんいます。弱肉強食の世界では、自己防衛のために必要な手段なのでしょう。)人間の世界でも似たようなところがありますが、人間は理性を持って創造されています。このような人は、嫌われることはあっても好かれることは少ないでしょう。このような人は自己顕示欲が強い人かもしれません。


その逆に、自分はダメダメと思い込み、自分の殻に閉じこもる人もいます。自己嫌悪、劣等感が強い人です。でも多くの人たちはこの劣等感を封印してしまいます。嫌なことは考えないようにしているのかもしれません。


自己顕示欲が強くても精神的に不健康、かといって自己嫌悪、劣等感が強くても不健康です。ではどうすればいいのでしょうか。どちらの感情も精神的に不健康といえます。しかし、私たちはただの人間に過ぎません。私たちのほとんどは、生まれてから少なくとも一度はどちらかの感情や気持ちを実体験してきているはずです。聖書は次のように言っています。

6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。6:3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。6:5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。6:6 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。6:7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。6:9 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。(ガラテヤ6章2節ー9節)

人はそれぞれ、自分自身を吟味して自分に出来ることをやっていくように求められています。このプロセスにおいて、自分自身の責任を果たすことになるのです。しかし、自分を「偉そう、賢そう」にして自分自身を欺く必要はありません。


人は、他人が自分より劣っていれば優越感にひたり「いい気分になってしまう」ものです。その逆に、自分が他人よりも劣っていれば劣等感に悩まされるでしょう。でも本来、人は他人と比べなくても自尊心はもてるのです。神によってユニークな存在として創造され、神によって愛され必要な能力が与えられているからです。創造主なる神に感謝して神を愛して礼拝しつつ、その能力を使うことが健全な人間になるための第一歩だと私は思います。


健康な人とはどんな人でしょうか。メタボは、不健康の象徴として言われますが、しかし、もっと大切な健康指標が私はあると思います。それは心の健康です。自分よりも下の人と比べて優越感を持つ必要もありません。自己顕示欲を満たす必要もないのです。むしろ、謙虚に自分を吟味出来る人です。神によって愛されていることを感謝できる人です。その感謝の気持ちゆえに、自分が出来ることをきちんとやると同時に、他の人とお互いに重荷を分かち合うこともできるような人です。

自分という立ち位置をしっかり理解して、また他の人を敬うことが出来る人です。このような人になれるように切磋琢磨してこそ、お互いに成長できると私は思います。

自分はダメ人間という劣等感からの解放

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時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた(ルカ22章14節ー23節)。