聖書は人間の罪の概念について何と教えていますか

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罪とは一体何でしょうか。聖書が教える罪の概念は何でしょうか。日本人にとって「罪」と言われもピンと来ません。罪=犯罪だからでしょう。人間の罪は、聖書の教えの中でも日本人にとって一番、理解しがたいかもしれません。罪という言葉自体、犯罪にかかわるという意味で使われますから、「自分には罪などない」と思われるのも当然です。ここでは聖書をもとに罪についてじっくり考えてみましょう。

人間は3つの関係を罪によって破壊してしまいました。まずは第一に創造主なる神の存在を認めないで、むしろ創造主なる神を偶像に変えてしまい、 その偶像を礼拝するようになりました。第二に、人間は自分自身を矛盾した存在にしてしまいました。自己中心的でありながらそんな自分を好きには慣れない存在です。最後に、人間はお互いを蔑みあい、憎み合いようになり、他の人との人間関係を壊してしまいました。

人間の愚かさによる様々な行い、思い、感情を聖書は罪と読んでいます。ここでは特に「姦淫」を例にとり罪について説明します。マタイ5章27節ー30節を読みましょう。

5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。5:29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

イエスが生きた時代も現代と同じように姦淫を犯すことは、裁きを受けるべき社会的な罪でした。ところがイエスはそのような判断基準をくつがえす様なことをここで言っています。心の中で女性を性的な思いをもって見ること自体、姦淫と同等の罪であると言っているのです。ここでイエスは、「罪とは実際に行動として行なっていなくても心によってなされてしまう」と言っています。

悪いことをしても絶対に人に知られないというような魔法のランプがあったら使いますか。銀行に行ってすべてのお金を盗んでも誰にも知られないのです。あなたの手に入らないものはありません。嘘をついても誰も知ることはありませんし、殺人でも知られないのです。誰かが憎かったら殺してしまえばいいのです。このような魔法のランプをあなたは使いますか。多くの人は「こんなものがあったら使う」と答えるでしょう。しかし、良心の呵責に悩まされることでしょう。たとえ良心の呵責を感じなくても、ただ一人あなたが行なっていることを知っている人がいます。あなたが何を隠れてやっているかすべて知っているのです。それが神なのです。

事実、実生活の中で多くの人は、これと同じようなことをしています。人に知られなければ何でもやってもいいという考え方です。しかし、そんなことはありません。その報いは、この生きている間に来るかもしれません。確かなことは、人は死んだ後、もう後戻りが出来ない時に、必ずその報いを受けるということです。

この世の中を見て罪についてわかる事

罪が何であるかを理解するには、少し世の中を観察するのが早いかも知れません。「この世の中ちょっと狂ってるかな」という疑問をふと思ったことはありますか。世界中のどこかで戦争は起こっています。日本は、と目をむけますと、毎日のように殺人事件と強盗事件が発生し新聞の3面記事の欄を埋めています。また、毒物による傷害または殺人が、毎月、月間の出来事のように起きています。さらに政治と企業での賄賂のやり取りや不正は後を絶ちません。毎年のように政治家または会社の役員が賄賂のやり取りで逮捕されています。これは氷山の一角に過ぎないでしょう。また青少年の犯罪は年々増加しています。子供が親を殺してしまった、またはその逆に親が子を殺してしまったなどの事件はいったいどれほどあったでしょうか。実際に、ある一定の年齢の少年を一般成人として扱う法改正も行われようとしています。

では、私たちの普段の生活ではどうでしょう。車、保険、土地、家などの購入、アパートの賃貸、電話等でのいろいろな勧誘などで私たちはいろいろな契約または取り引きを結ぶことがあります。その中でだましだまされたりがこの世の中でしょうか。車を売るデイーラーは初めから値引きを計算に入れて見積もります。また保険を売るセールスマンは被保険者にとって不利益なことは決して言いません。こちらから尋ねても、はぐらかした答えが帰ってきます。電話での勧誘、訪問販売の勧誘でも、セールスマンは決して商品の不利な点は言いません。訪問販売でうまく売りつけた人も、車を相場の値より高く売り付けた人も、他の所で所詮どこかでだまされているのでしょう。

現代は宇宙へロケットを飛ばしコンピューターで瞬時に通信もできるようになった時代です。科学の可能性はとどまる所を知りません。そんな時代になっても人間の愚かさは変わりません。そしてこの愚かさは私たち自身を苦しめる愚かさです。しかし、人間はロボットではありません。人間は神によって自由意志を与えられ、罪を行ない続けるか、それとも神の教えに従って生きるかの選ぶ権利を与えられました。

罪は人間社会に様々なかたちで人間社会に影響してきました。4つに大きく分けて考えてみましょう。

第一に、人は天地万物を創造された神を偶像化してしまいました。創造主を礼拝するよりも創造された山、河、月、太陽や人間などの被造物を礼拝するようになったのです。また人が自身で造った偶像を礼拝したのです。

第二に、罪は人間関係を破壊しました。うまくいっている人間関係においても、何かのきっかけで罪の種は人の心に入ります。何年もかけて築き上げた人間関係を一日で破壊することはたやすいことです。

第三に、人は矛盾した存在となりました。非常に自己中心的でありますが、そのような自分自身を嫌うものになってしまったのです。ある日は自身に誇りを持ち、またある日は嫌悪感に才悩ませる矛盾した存在になってしまったのです。お互いに愛しているといって結婚しても、1ヶ月もするとその愛はなかったかのように行動することも可能です。このような矛盾した人の行動は数え上げたら際限なくあります。

第四に、これらの人間社会への影響は結果的に神と人間の関係を破壊してしまったのです。人は神の教えに逆らい罪を犯し、神から離れた存在になってしまったのです。 この罪の中で人はもがき苦しみ、最終的に神との関係を完全に絶ち切ってしまう死を迎えます。人は死に対して恐怖を覚え罪に対して恥を覚えます。しかし、人は自分自身を理解していませんから、このような感情や罪にをどう対処したらよいかわかりません。そのような状態で人は救いの手を哲学に求め、あるいは人間が作り上げた宗教に求めたのです。それも空しい努力に過ぎません。なぜなら、人は罪の根元を知らないからです。

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