義なる神

神の裁きがまだ来ない理由
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創造主なる神、三位一体の神の性質である「義」とは何でしょう。クリスチャンが神を敬い神に祈る時、よく使われる表現として「聖なる、義なる、愛なる神」と神に呼びかけます。義なる神とはどんな神でしょうか。

聖なる神は、その聖なる性質ゆえに、神を信じる者にも聖を求めます。神は聖なる方ゆえに罪を嫌います。さらに神は義なる方ですから、その罪を罰するのです。

「聖なる、義なる、愛なる神」の中でどちらかが一方よりも大切であることはありません。神のすべての性質は等しく重要です。その3つの性質は、三位一体でありお互いに補う関係にあると言ってもいいでしょう。つまり、神は聖なる愛によって人々を裁くのです。聖なる神は人間が犯す罪を嫌い、また人間をを愛するゆえに、人間を裁くのです。

7:9 あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、7:10 御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。(申命記7章9節ー10節)

罪、神の教えに反する心、不信仰には必ずその報いが伴います。罪の結果を私たちが遅かれ早かれ支払うことになるのです。しかし、旧い契約の時代には、憐れみ深い神は、いけにえという手段を通して神の民の罪を赦しました。ヤギや雄牛が、イスラエルの人々の罪を贖うために捧げられました。その血は命を象徴しています。その血が、人々の代わりに流されることにより罪は赦されたのです。

上記の聖句は旧約聖書に書かれていますが、「罪には必ず報いがある」という原則は、新約聖書においても変わりがありません。

神は、イスラエルのように律法で歩む人たちも、その他の人々のように良心に従って歩む人たちも、同様に罪の下にあると断罪しました。罪の報酬は死です。肉体的な死であり霊的な死です。霊的な死は肉体的な死の後に、神の裁きとしてやってきます。

しかし、神は聖なる愛なる方ゆえに、人間に裁きを下すだけで終わらせませんでした。自らのひとり子である方を、キリストとしてこの地上に生まれさせ神の御心を伝えさせ、犠牲の人生を歩ませたのです。義なる神は、罪のない方、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとさせ、十字架につけいけにえとして捧げたのです。

旧い契約で行われたいけにえでは、完全に人々の罪を消すことは出来ませんでした。人々の良心を清める事は出来なかったのです。なぜなら、いけにえを捧げた大祭司も罪人であり、自分自身のためにいけにえを捧げる必要があったからです。人類すべての罪を贖なうためのいけにえは、完全無垢であるイエス・キリストの犠牲が必要であったのです。

まとめとして、次のことが言えます。

  • 究極の犠牲は十字架での死です。キリストは神の裁きとして十字架につけられたのです。
  • 私たちの人間が受ける裁きを、キリストが受けてくださったのです。
  • ここに神の正義が行われたと言えます。

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