キリストの権威と人間が作る権威

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宗教の権威って何でしょうか。キリスト教が示す権威も仏教が示す権威は、見た目は似たり寄ったりです。一般信者より豪華でキラキラした服を着てます。頭には何かかぶっているかもしれません。キリストの権威と人間が造り出す権威を比較してみましょう。

権威に関するキリストの戒め

 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」(マタイ23・2-10)

人間が作る権威には、常に序列があります。12人の弟子たちが「誰が一番偉いか」などと議論していたように、人間は序列を作りたがります。ピラミッド型の組織が出来るのです。カトリックもプロテスタントもその意味ではあまり変わりがないでしょう。きわどい所でみんな罪を犯しているのです。それでも憐れみ深い神は、諸教会を祝福していますが、、、。

宗教的権威はなぜ腐敗するのか

クリスチャンの悔い改め

私たち人間にとって、人生の師、先生、教師は一人だけです。主イエス・キリストだけです。後はみんな兄弟姉妹だと言われています。本来のキリスト教、つまりキリストの教えには、クリスチャンの間に序列を作ることなどありえません。神の御前では、「ドングリの背比べ」です。そんな中で誰が一番か?キリスト教の世界では議論される時があります。主は、こんな私たちを見て嘆いているのではないでしょうか。

考え方を改め、態度を改めましょう。どんなに有名な先生でも、偉いと言われている先生でも、私は特別扱いしません。名も知れぬクリスチャンであっても同じように接します。誰に対しても、主に敬愛する心をもって接します。悔い改めとは?

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。(ヤコブ2・1‐7)

教会において実際にこのような差別はないと、誰が言えるのでしょうか。悲しいかな、私たち人間、罪人が成せるわざです。神の御心によって生きていきましょう。すべてを神の栄光のためにやって生きましょう。

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時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた(ルカ22章14節ー23節)。