聖書は、人間の知識を超えている不思議な本

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聖書の成り立ちをよく考えてみると、聖書は本当に不思議な本だと誰もが、気づかれるのではないでしょうか。聖書(旧約聖書39巻、新約聖書27巻)は3000年以上の長い年月を経て違った人々に書かれています。旧約聖書はそのほとんどがヘブル語、少しの部分がアラム語で書かれており、新約聖書はギリシャ語で書かれています。しかし、聖書の中にあるどの書をとっても、そのテーマは一貫して神です。もう少し詳しく分ければ神の愛、神の正義、神の権威、神の創造、神の聖、神の裁きなです。しかし、同時にそこに人間の存在が関わってきます。聖書は、人間の知識を超えている不思議な本であることを説明します。


世界は、神が造った舞台

舞台

たとえで言えば、神は劇場の舞台を造った方であり総監督です。舞台裏で見ている方です。私たち人間は舞台で自由に演じている役者といってもいいでしょう。本来ならば、舞台に立って演じている役者たちは、総監督の意向に沿って演じるべきです。この総監督は「私の言うとおりに演じなさい」と役者たちの心に良心を植え付けました。しかし、同時に自由意志を与えたのです。役者は良心に従い自由に演じなさいと命じられたのです。しかし、多くの役者たちはこの自由を悪用して好き勝手に演じるようになりました。舞台は混乱するばかりです。


旧約聖書に啓示されている「世界という舞台」

旧約聖書においてはイスラエルという特定の民族が神によって選ばれ神の愛を受けて律法が与えれらます。しかし、イスラエルの人々は自由意志を悪用して神の御心通りには生きません。その結果、イスラエルは神の裁きを受けます。バビロン帝国に奴隷のように連れていかれてしまうのです。イスラエルの周囲の諸国民族にも神の愛が注がれ、また神の裁きが下されます。


創世記1章によれば、天地万物は神によって創造されたと記されています。またここから人類の歴史が始まります。創世記12章から神の物語の焦点はイスラエルに移りますが、神の目はいつも地球全体の民に注がれているのです。ここがまた聖書が不思議な本である所以です。神が造った舞台は、常に地球全体を指しています。

 

新約聖書で、明らかにされる全人類への神の愛

新約聖書において、神の愛が地球規模であるということが明らかにされます。旧約聖書の預言にあるように、キリストがイスラエル民族の中のユダ族から生まれるのです。この方はイエスと名付けられます。そしてユダの地で神の御心を教えるのです。ところがイスラエルの人々であるユダの人々はイエスの教えに耳を傾けようとしません。むしろ、ユダヤ人律法学者や教師たちは、イエスを何とか失脚させようと策略をねります。最終的に、イエスをローマ帝国の法により十字架刑につけてしますのです。


不思議なのは、この方の十字架上の死が神の御心だと新約聖書は教えていることです。この方は全人類の罪のために死なれたと教えていることでしょう。


人間には自由意志が与えられています。しかし、その大切な自由意思を悪用してしまい、結果的に重い罪がのしかかり自分自身を苦しめると教えています。この世のすべての問題(地球温暖化であろうと、戦争であろうと、原子力であろうと何であろうと)は、人間の自業自得と言えないでしょうか。


読者の皆様は、人間には罪があると信じていなくても、「現実を見ると人間が自分自身を苦しめているのは確かだから、納得せざる得ない」のではないでしょうか。ここにも聖書の不思議さがあります。人間の現実社会は聖書が教えている通りに動いていることです。


もっと不思議なことは、イエス・キリストという方についてです。「この人はいったい何者?」が私が聖書を初めて読んだ時の疑問でした。この方の教えが、現実社会においてすべて的を得ていることは、私には否定できませんでした。さらにこの方が自分は、「自分の父なる神から遣わされてきたと」いう主張に、私は心底悩みました。本当に最初私は頭を抱えて、どのようにイエスの言葉を受け取ればいいのかわかりませんでした。どんな人がこんな事を言えるのだろうか、と日々考えました。でも同時に、聖書の一つ一つのことばに不思議な力を感じたのも覚えています。


聖書を読み始めて気づいたことですが、今まで誰も教えてくれなかったような事、特に人生の基本原則のようなものを発見するようになったのです。毎日が新しい発見の日々だったのを覚えています。「驚くべき恵み」という賛美歌がありますが、まさにこの歌の表現がピッタリくる感じです。


聖書には知恵が隠されています。人間が生きるべき道が示されている不思議な本です。ぜひ一読をお願いします。

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