真理はあなたを自由にする

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人生には、肉体的にも特に精神的にも疲れることが多いです。そんな私たちに、イエス・キリストは「わたしに従う者は真理を知り、真理はあなたを自由にする」と言っています。また「重荷を負って疲れている者はわたしの下に来なさい。わたしが休ませてあげよう」とも言っています。キリストのこの2つのことばは、実はおなじことを説いています。その意味を説明します。


人生はジグゾーパズル

人生は、ジグゾーパズルに似ています。しかも、この人生のパズルには、どこにもはまらないようなピースが散らばっています。どこにはめていいのか、見当もつかないようなものです。このパズルには多くの謎があります。その謎の中で、人間は頭をかかえ、時には苦しみもがいているのです。この謎ばかりのパズルを解くカギはあるのでしょうか。[expander_maker id=”5″ more=”Read more” less=”Read less”]


さらに、何かが足りように思えてきます。このゲームは、最初から間違って作られているのでは?と感じる時もあるかもしれません。この人生パズルには、多くの落とし穴が用意されています。奈落の底へ落させる落とし穴です。迷路に入ることもしばしばです。八方ふさがりになり、どうしようもない、と諦めるような時もあります。


出口のない迷路に入ってしまったらどうしましょうか。出直しはできないのでしょうか。ゼロからの出発でやり直しはできないのでしょうか。人生のやり直しに、遅すぎる事はありません。今というこの時が、変わるための第一歩ではないではないでしょうか。どうにもならないと感じたら、キリストの教えを聞いてみましょう。答えはキリストに必ずあります。


過去を振り返ればいろいろな失敗があったかもしれません。わたしの場合は、生きる意味を理解していなかったから、様々な愚かなことをやり続けたのです。かといって過去に戻ってやり直しはできません。そこで人生をやり直すには、やはり生きる意味、人生の目的を知らないと・・・・。キリストのもとに行くのが一番の早道です。

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真理はあなたを自由にする

人間は真理を探究する

真理と一口でいってもいろいろあります。人間の存在意義を問いかける哲学的真理、医学的真理、科学的真理、この大宇宙を動かしている真理、自然世界の真理などです。人間は古今東西、文化や時代を問わず、様々な分野でこれらの真理を追い続けています。しかし、この真理探究はどこまで行っても終わりはありません。キリストは、「真理はあなたを自由にする」と言いましたが、人間は自由どころか、真理探究にはまっている感じです。(大学の先生が真理探究の勧めというエッセイを大学のHPに投稿しています。)

何か新しいものを発見したとしても、そこからまた新たな謎がわいてきます。技術革新がどれほど進んでも、この真理探究の道には終わりがないようです。稀代の哲学者たち、科学者たちが一生かけても見つけることが出来なかった究極的な真理、そこには人間の頭脳を超えたものがあることを物語っているのではないでしょうか。


科学者たちは科学的真理探究に没頭します。しかし、科学的真理が見つかったとしても、わたしたち人間の宇宙や自然との関わり方に、どのような解決策をもたらすのでしょうか。むしろ、なぞは深まるばかりです。特に、大宇宙、自然の中での人間の存在意義や人生の目的や意味を考えると、出口のない迷路のようなものですから疲れるばかりです。だから、人は、そのような事を考えるのは止めようと思うのでしょう。


イエス・キリストは真理

イエス・キリストは次のように言っています。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネの福音書14章6節)

イエス・キリストがいう「道、真理、命」は、まさに人間が生きる上で求めるものではないでしょうか。それは生きる道であり、様々な真理であり、命の意味です。何のために生きているのか、存在しているのか、と私たちはふと考えることがあります。結局、答えが見つからないので止めてしまいますが、、、、。しかし、答えはキリストにあると私は思います。


またイエス・キリストは次のように言っています。

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネの福音書8章31節ー32節)

ここでキリストが言っている真理とは何でしょうか。この記事の冒頭で述べた科学的な具体的な数式や規則を指しているのではありません。哲学的な真理でもありません。むしろそれらすべてを超越している真理、言葉では説明できない真理を、キリストの教えにとどまるならば、心で知ることが出来ると教えています。ここで注意すべき点はその順番です。

キリストの教えに従う > 弟子になる > 真理を知る > 自由になる


携帯電話を例に説明します。

携帯電話のマニュアルを端から端まで読んだけど、一度も携帯を使ったことがないとします。その携帯のハードからソフトからすべてを知っているとします。でも実際には使ったことがないとします。これで携帯電話の便利さがわかるでしょうか。一度も手に触ったことがないのに、自由に使えるでしょうか。


実は、キリストの教えも同じです。キリストの教えを読むだけで実践しないでは、その良さはわかりません。使って初めて「あ~そうか!」と真理を心で知ることが出来るのです。これは頭だけで理解する知識とは違います。そして、この様な人は、真理探究の人生の重荷から自由になれるのです。今まで何となく「人生って何だろう?」と疑問におもっていたことが、徐々に答えられていくのです。非常に不思議なことですが、これは真実です。


良い意味でも悪い意味でも、「宗教は人を束縛する」というのが一般的なイメージでしょうか。良い意味では、たとえば仏教の修行僧の生活のサイクルは、修行の規律に従って確かに行われているようです。朝早くから境内の掃除をしたり朝食を作ったり、その後はお経を唱えたり、修行僧たちは一日中忙しいそうです。しかし、どちらかというと「宗教は人を束縛する」という表現は、ネガティヴな意味で使われることの方が多いと思います。キリスト教に対する一般的な見方も変わりはないでしょう。だから教会の敷居も高くなってしまうのでしょう。


キリストの教えには、信者(クリスチャン)を縛り付けるようなことは100%ありません。もしあるとすれば、既存のキリスト教や人間が作ってしまった規則が、信者を縛り付けてしまっているのです。教会とは本来、出入り自由な場所だと私は思います。教会の礼拝に出席して他のクリスチャンと交流を持つ、持たないは、教会によって決められるべきことはではないです。人間が作ってしまっている規則が、もしクリスチャンを束縛するようなことがあれば、それは100%誤りであると言わなければなりません。


われわれ人間は、様々なことで自分を縛り付けていることがあります。たとえば私たちは、人間関係、親子関係、子育て、仕事のプレッシャー、財政的な事など悩むことがあります。悩みの種は尽きないでしょう。このような事で悩んでいる時、私たちの心はその悩みによって縛り付けられているのです。その悩みから逃れるために、アルコールや麻薬に頼る人もいます。しかし、キリストはこのような束縛から私たちを解放してくれるのです。


宗教は確かに人を束縛しますが、キリストの教えは宗教ではないと思います。キリストを信じる事も宗教ではありませなん。むしろ人間のあるべき姿だと私は思います。もし教会の敷居が高いと思われる方がいれば、自分自身で聖書を読み始めたらいかがでしょうか。キリストの教えに耳を傾けたらどうでしょうか。さらに良い教会、キリストの霊が宿る教会に行けるように行けるように祈りましょう。きっと見つかるはずです。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」

自分は重荷を負って疲れている?

「人生山あり谷あり」と言われます。だから人生はおもしろいとも。しかし、実際に重荷を背負っている人、思い悩んでいる人、人生に疲れている人にとっては、そのような言葉は励ましにはならないでしょう。この人間社会では、心が疲れてしまうことがどれほど多い事でしょうか。凶悪犯罪や悲惨な事件、事故を聞くたびに心が暗くなってくることはないでしょうか。それプラス、自分が抱え込んでいる問題からくるプレッシャーだったり、心が疲れてしまうことばかりです。


身体だけが疲れているのであれば、しっかり睡眠をとったり栄養ドリンクを飲めば回復するでしょう。心の疲れは睡眠だけではとれないことがあります。心の状態は見かけだけではわかりません。普通に暮らしている人の中にも、心療内科にかかっている人が、意外に多いのに気づかされます。心療内科の専門医が多いのもそのせいでしょう。


キリストの招き

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11・28-30)

人間は生きていくうえで疲れてしまう、重荷を負ってしまうことを、キリストは知っておられ、このような言葉をわたしたちに言っているのです。キリストは完璧を要求する厳しい方ではありません。心優しくわたしたちに接してくださり、行くべき道を示してくださいます。

大切なポイントは、キリストの軛(くびき)を負い、キリストと共にこの人生を歩むことです。そして、生き方についてキリストから学ぶのです。そうすれば、心に安らぎが宿り平安が与えられるのです。軛(くびき)とは、牛に首にかける農作業に使うものです。1世紀の当時の人たちにはわかりやすい例えだったでしょう。キリストが与える軛は、すべての人間に合うように造られています。そして、その荷は軽いのです。わたしたちが人生で抱える重荷とは違います。キリストご自身が、わたしたちの重荷を負ってくださり、その代わりにわたしたちはキリストの軛を負うのです。


かといって、働くなくてもいいという意味ではありません。見た目には生活に変化はないでしょう。しかし、心に変化が起きます。心に平安が宿るようになります。安らぎが訪れます。不思議なことですが、真実です。

わたしたちがキリストの軛を負いキリストから学ぶ時に、天にいらっしゃるキリストがわたしたちの生活で実際に働いてくださるのです。不思議なことですが、本当です。

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