教会は建物でなくクリスチャンの共同体

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教会の概念は何でしょうか。一般的に、教会は教会の建物を指していますが、聖書が教える教会は建物を指しているのではありません。教会とはクリスチャンの集まりであり共同体です。このページでは教会の概念を説明します。

キリストのからだ

「キリストのからだとは、教会のことです」(コロサイ1章24) とありますように、教会はからだにたとえられます。では教会の姿を、次の聖句を読んで考えてみましょう。[sg_popup id=”6916″ event=”click”]1コリント12章14節ー22節をクリック。[/sg_popup]

この聖句でも、人間のからだにたとえられ教会の姿が説明されています。教会メンバーのひとりひとりが、重要な器官の役目を果たしており、その人の役目がどんなに小さくても教会にとっては非常に大切なのです。 世の中では、偉い人や重要なポストに就いている人が重要視されます。しかし、教会においては、一般常識では重要でないと思われる人こそ必要なのです。「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」 と書かれてあるとおりです。

さらに、重要な聖句を読んでみましょう。1コリント12章26節に「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」 と書かれているように、本当の教会は、主イエス・キリストの恵みによって、苦しみと喜びをお互いに分かち合う人々の共同体です。これは、イエス自身によって教えられた言葉にも表れています。[sg_popup id=”6919″ event=”click”]ヨハネ13章34節ー35節をクリック。[/sg_popup]

イエスの愛が、教会の人々の中に宿ります。 それゆえにクリスチャンは、イエスが愛したように愛しなさいという命令を受けているのです。 お互いに愛するとは、具体的にはどのようなことでしょうか。

「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3章12節-13節)と命じられています。主イエス・キリストが、私たちを受け入れて下さっているように、お互いに受け入れ合うことです。

教会に行く意味

神を愛し隣人を愛す人々としての教会

神の愛、隣人愛は、教会の特質として欠かすことが出来ません。 教会の人々は、神を愛し、隣人を愛す人々です。 主イエス・キリストによれば、私たちが守るべき一番大切な教えは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。さらに隣人を自分のように愛すこと」なのです。 (マルコ12章28節)

愛と聞くとロマンチックな愛を考えがちですが、キリストが言う愛ではありません。教会の人々は、すべての能力、つまり心(純真な思いや願い)、思い(感情や感覚)、知性(理論的な考え)、力(理知的な力と意志や肉体的な力)を尽くして、神を愛すことが求められます。 神の教えを理解し、心からその教えに従うことです。時には、理知的な力と意志や肉体的な力も必要でしょう。

さらに、「人は自分自身のように隣人を愛すべきだ」とイエスは言います。 この教えは、自分自身をも愛すことを裏付けています。これは、自分中心的な愛ではありません。 むしろ、自分自身への愛は、神によって創造された確信と、神によって愛されているという確信からくるものです。 同じ理由で、神によって創造された隣人を愛します。横の関係(隣人、他の人との関係)をしっかり保つことは、教会にとって非常に重要です。縦の関係(神との関係)と同じくらい重要なのです。

クリスチャンの中には教会に幻滅を感じて、教会での礼拝に出席しなくなってしまっている人が少なくありません。教会内での人間関係が問題があったり、牧師との人間関係が問題であったりします。健全な教会では、このような人間関係も解決できるものです。クリスチャンが教会に行かなくなる理由も参考に。

神の契約による共同体

教会は、神と契約を結んだ人々の共同体です。イエス・キリストの死と復活を信じ、悔い改めてバプテスマを受けた者は、神によって契約が与えられます。神は、その人と契約を結ぶのです。その契約とはどんな契約でしょうか。その契約によって、その人は、罪の赦しと聖霊を神の賜物として受け、イエス・キリストの弟子として生きていくのです。 バプテスマは、言わば神と礼拝者が契約を交わす結婚式のようなものです。 神は、その人の信仰を認めてその人と契約を結ぶのです。その契約の証印が聖霊なのです。(エペソ1章13節)


使徒行伝2章42節には、1世紀のクリスチャンたちが、「使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」と書かれています。 クリスチャンとして3つの重要なことを行なっていました。

  1. 使徒たちの教え、新約聖書で書かれている事を忠実に守ることです。 教会の人々は、イエスに忠実に従う人々です。主の契約に預かる人は神の教えを学び、日々その教えに従って生きていきます。
  2. 神に祈ることです。天地万物を創造した神がすべてを支配していることを信じ、その神の栄光が輝き、神の教えが教会内で実践され、またより多くの人々が神を知るように祈るのです。
  3. パンを裂くとは、主の晩餐を受けることを指しています。

主の晩餐は、主イエス・キリストが復活された週の初めの日(日曜日)に、主の復活を覚えてクリスチャンが受けるものです。主の晩餐のパンは、キリストの体を象徴しています。また主の晩餐のブドウジュースは、キリストが十字架上で流された血を象徴しています。


クリスチャンは、主の晩餐のパンを受ける時、イエス・キリストの教えを思い起こし、自分がキリストの弟子であることを改めて認識する時です。イエス・キリストのからだである教会を覚え、他のクリスチャンのためにも祈り人間関係を吟味する時です。また、晩餐のブドウの実のジュースを飲む時、 クリスチャンは、キリストの十字架で流された血によって、自分の罪が赦されていることに感謝の祈りをささげ、神の救いの業と慈悲を思い起こし自分自身の罪を告白をします。

このように、教会とは罪ある者が悔い改め、イエス・キリストの名によってバプテスマをうけて、神の子供とされたされた人々の集まりです。 聖霊で満たされたクリスチャンたちが神を唯一の神とあがめ、キリストの弟子として生きて神の民とされた人々の集まりーこれが教会です。

そこには神の御国、神の支配、神の権威があり、常に神の御心が行われているべき場です。 神の権威がなければ、教会自体に権威はありません。神が招いた人々、キリストを信じて受け入れキリストの名によってバプテスマを受けた人々の集まりが教会なのです。

キリスト教の様々な教派には、人間によって作られた伝統や規則などがありますが、もし規則、決まりがあるとすれば、神が制定したものだけが本来有効でありクリスチャンが従うべきなものだと、私は信じています。

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