私は、主イエスが建てる教会を信じている

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未信者の方は、キリスト教はカトリックとプロテスタントに分かれていると考えているようです。そこで「どこの教会に行くか?」って話になると、「カトリックかプロテスタント、どちらがいいのか」と悩むようです。ではプロテスタントと決めたとしても、プロテスタントのどの教会を選んだらいいのでしょうか。クリスチャン人口が1%以下の日本で、星の数ほどプロテスタントの様々な教会が存在します。

教会ショッピングをしますが、多くの方々が勧誘が怖くてなかなか教会訪問が出来ないでいます。教会選びの目安も参照 結局、行きたいけど行けないと二の足を踏んでしまうことになるようです。この様な恐怖心を、一般の方々に与えてしまう教会側にも多くの問題があります。

おまけにキリスト教にはカルト的なグループが存在するのも、否定できない事実です。社会的な地位が与えられていない上に、マインドコントロールされた人たちを見聞きすると、ノン・クリスチャンの方々が引いてしまうのも理解できます。

このような環境下で、ある人たちは自分で聖書を読みながら学び安全なネット教会という道を選びます。このような選択に「やむ得ない」と思いますが、本当にそれでいいのかな?と私は疑問を抱きます。

教会に属さない、属したくないクリスチャン

実際に教会の礼拝に出席してメンバーになってみると、非常にイヤな経験をして最終的に教会に行くをやめてしまう人も多くいます。クリスチャンが教会に行くのををやめる理由も参照 この方々は、人間関係に苦しんだり、パワハラ、モラハラを感じて、「いろいろ教会行ったけど、教会って私には合わないみたい」と最終的に諦めてしまいます。

具体的には、牧師先生からいつも「~をやりましたか、していますか」など聞かれ、この方々はプレッシャーを感じてしまうようです。または、教会には比較的性格の強い方々がいますが、その人たちから同じような質問を受けます。その期待に応えられないと「ダメですね」みたいな烙印をおされてしまうようです。実に、悲しい事です。

教会の牧師の権威、神父の権威、組織も問題になるようです。この方々は、内村鑑三氏が唱えた無教会主義に賛同をおぼえ、現在も様々な活動を行っています。

結論として、「既存の教会には属さないクリスチャンでいたい」と思うようです。この方々は、教会に属してもいいけど、属さないでもクリスチャンとしてきちんと生きていると主張しています。参照サイト でも本当にそれが神の御心でしょうか。

私は、主イエスが建てる教会を信じている

主イエスは言っています。「 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16・18)。今この世に主イエスが建てた教会がある、と私は信じています。また、今の時代でも、主イエスは現在進行形で教会を建てていると信じています。なぜ、私はそのような教会が今でもあると信じるのでしょうか。主イエスは、必ず約束を実現する方だからです。

キリストと絆

もしキリストが建てている教会がないとすれば、変な事になりませんか。主イエスは、神のためにそのような集会、教会を建てるとおっしゃったのに、それがないとなると主イエスは約束を守っていないことにならないでしょうか。今、主イエスの弟子であるクリスチャンがいなければ話が別ですが、、、、。

教会は、目的をもって主イエスに建てられたのに、それが今ないなんておかしいな話です。神の御心が行われないで終わっていることになります。使徒パウロは次のように書いています。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

エペソ1・20‐21

教会は、もちろん物理的な建物ではありません。教会は、クリスチャンの集まりです。聖書は、教会をキリストの体と呼んでいます。体にはいろいろな部位があります。それぞれが、それぞれの役目を果たしお互いを支え合って体と機能しているのです。教会にも同じことが言えます。クリスチャンは、キリストの体である教会の中でお互いに切磋琢磨して成長していくのです。

注釈:新約聖書で教会と訳されている言葉、ギリシャ語エクレシアは元々「集会」という意味があります。一般のギリシャ人たちもこの単語を使っていました。この単語の意味を「呼びされた者、エク・レシア」と解釈する古い学説がありますが、しかしこれは言語学的に誤った解釈です。

パウロは、教会がどのような場を説明していますが、いまこのような場、集会はないのでしょうか。突然、この世から消えてなくなったのでしょうか。人間の罪ゆえに、教会はこの世から消え去られたのでしょうか。そんな事はないと私は信じています。なぜって?教会は、陰府の力でさえ打ち負かすことは出来ないからです。人間の罪でつぶされるような教会は、初めから教会ではないです。主イエスは、今も、ご自分が建てた教会を整えて下さっています。この意味で、主イエスは、聖霊を通して今も教会を現在形で建てているのです。

主イエスが、弟子たちに求める人間関係

主イエスが、クリスチャンに求める人間関係とはどんなものでしょうか。主イエスは、弟子たちと寝食を供にして非常に近い関係の中で、彼らを育て神の御心を教えました。主イエスは、同様に神の愛に満ちた親密な関係を弟子たちに求めます。しかし弟子たちは、その教えに応えずに競争心にあおられ「弟子の中で誰が一番偉いか」などと議論して、仲間割れすることもありました(マルコ9・32-34、10・41)。主イエスは、そんな弟子たちに次のように言います。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

ヨハネ13・34-35

主イエスが愛したようにお互いに愛すーこれが本来の教会の姿です。クリスチャンの交わりであるこの関係から離れて、本当にクリスチャンとして生き続けることが出来るのでしょうか。主イエスは、愛するに値しない人たちを愛しました。お互いに争い事をしているような弟子たちを愛したのです。同じ関係を主イエスは私たちに求めています。

近い関係になれば、肘がぶつかり合う事もあります。頭と頭がぶつかり合うこともあるでしょう。しかし、それは織り込み済みです。私たち人間はそのような人間性をもっているからこそ、主イエスが愛したようにお互いに愛し合いなさい、と戒められているのではないでしょうか。パウロは、この人間関係の原則をエペソの手紙で説明しています。

だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。…無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

エペソ4・25-32

お互いに助け合い愛し合うと言っても、相手と親しい関係をもたずにどのように助け合うことが出来るでしょうか。愛せるでしょうか。お互いをよく知り合うと、お互いに欠点も良く見えてきます。それでもお互いに受け入れ合うのです。それが主イエス・キリストの命令です。キリストの体である教会でこそ、この関係は実現可能なのです。なぜでしょうか。主イエス・キリストが真ん中にいるからです。

主イエスのからだである教会で成長

教会は、主イエス・キリストの共同体です。クリスチャンは、主イエス・キリストによって、また主の霊である聖霊によって力をいただきます。同時に、他のクリスチャンからもお互いに元気をもらうのです。パウロは、ローマにいるクリスチャンたちに会うのを熱望して次のように書いています。「あたながたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいので」(ローマ1・12)。

下の聖句では、教会に関して神の御心が示されています。

そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

エペソ4・11-16

世の中には様々な教えがあります。実は、キリスト教の世界も例外ではありません。様々な教派と教理があり、まるで悪魔が人々をもてあそんでいるように思えます。しかし、クリスチャンは、真理を見分ける目を主イエスによって与えられている、と私は信じています。

だからこそ、主キリストが建てている教会かどうか、見極める必要があると私は思います。

主キリストが建てている教会には自浄能力がある

神の御前で完全であった教会でも、罪人である私たち人間が関わりますから、人間的な目から見ると完全な教会などありません。人間が霊的に生きているように教会も生きています。クリスチャンが霊的に健全な時もあれば、病気になる時もあります。教会も同様に病気になることがあります。しかし、主キリストが建てている教会には自浄能力があると私は信じています。人間関係の誤解だろうと、教理の問題だろうと、何らかの意見の食い違いだろうと、どんな問題でも主イエス・キリストが真ん中にいる限り解決可能です。

もしそこで教会内の人間関係が崩壊するようだと、本当の病気です。教会メンバーの目が主イエス・キリストに行っていないかもしれません。罪の力が強すぎて全く、霊的な目を失ってしまっている状態です。仲裁者であり、リーダーである牧師先生が、争いごとの渦中にいるとまた問題です。

私は、常に主イエス・キリストが建てている教会を目指しています。まだなっていないと自覚しています。なったと思ったら、そこで霊的な成長が止まってしまうでしょう。

読者の皆様の教会が、主イエス・キリストが建てている教会でありますように、心よりお祈り申し上げます。

教会とは?も参照