キリストが建てる教会を目指して

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キリストは「わたしは、わたしの教会を建てる」と言いました。この教会と訳されている単語「エクレシア」は、もともと集会という意味があります。新約聖書の他の個所を考慮にいれると、共同体と考えてもいい言葉です。キリストが建てる教会を目指して生きていくことに、クリスチャンとしての一つのミッションがあるように私には思えます。

教派に囚われない教会

「教派に囚われないクリスチャンになりたい」というタイトルで記事を書きましたが、教会に属さないという意味ではありません。既存の教会組織に入らないという意味で、無教会という考え方もありますが、私の考えは、内村鑑三氏の考えとは違うかもしれません。(ここで内村鑑三氏の無教会の概念とは、何かを議論するつもりはありません。参考サイト 無教会とは?

既存の宗教である教会には属したくはないですが、しかし私はキリストが建てるといった教会の存在を信じています。そのような教会に属したいと心から熱望しています。今、私が属している教会が、キリストが建てる教会になることを望んでいます。

そのためには、教派の規則、教則に囚われないような教会であるべきではないでしょうか。キリストは、教派に縛られている教会をも受け入れて下さる恵み深い主でありますが、人間が作る規則や伝統に縛られない教会を望んでいるのではないでしょうか。ひとたび、教派の足かせを着けたら、それに縛られることはならないでしょうか。たとえ、ある提案が、神の御心に適った聖書的な考えであっても、その教派の伝統に合わなければ用いられないことにならないでしょうか。

自浄作用がある教会

クリスチャンが生身の人間として生きているように、教会も生きています。クリスチャンがサタンにだまされ霊的に病気になることがあるように、教会も病気にかかることがあるのです。今の世の中にも、健全な教会もあれば、少し病気がちな教会もあるでしょう。1世紀の教会であっても、コリントの教会は内部分裂という病気にかかっていました。使徒パウロは、キリストの十字架のことばを解き明かし、聖霊による自浄作用を促しています。

聖霊による自浄作用の原則は、21世紀の教会にも当てはまります。教会内の各クリスチャンが、真摯に神の御心を求めていく、あるいは違った意見を持っている人がいたとしてもお互いに受け入れていく、謙遜に柔和に一心に神の御国と義を求めていくような集会または共同体において、神の聖霊が働いてくださるのではないでしょうか。このような教会において、もし悪があればその悪の膿を出し切って浄化してくれるのではないでしょうか。

管理人は、そのような教会に属していたいと熱望しています。各クリスチャンが、主の再臨を望みいつも希望をもっているような教会です。聖書解釈の違いは許容範囲内です。たとえ、牧師に反対しても許容範囲の教会です。牧師先生の言葉が、何においても最後の言葉になってしまうような教会ではないです。みんなで、神の御心を求めるために、聖霊の力を借りて主イエスの名によって祈れる教会、そんな教会が主イエス・キリストが建てる教会ではないでしょうか。管理人は、心からそのような教会の存在を信じています。

クリスチャンは、教会という共同体内で成長していく

主イエス・キリストを12人の弟子を集め小さな共同体をつくりました。さらに、ペテロ、ヤコブ、ヨハネという3人を集め、より小さいな枠組みを造ったのです。その近い人間関係の中で彼らは、多少のあつれきも経験しながらも成長したのではないでしょうか。教会というキリストの共同体から離れて、クリスチャンが霊的に成長するのは、不可能ではないかもしれませんが非常に困難に私には思えます。

キリストが建てるといった教会を目指すことこそ、クリスチャンの一つのミッションがあると信じています。そこは死の世界も打ち勝つことができないのですから。神の御国が宿っている場ではないでしょうか。

だから、私は特定の教派を否定することもしないし、肯定することもしません。むしろ、そのような教派に囚われたキリスト教ではなくて、もっと自由であっていいと思うのです。牧師先生に意見する自由さがあっていいのです。反対意見を言える自由さがあっていいのではないでしょうか。そこに切磋琢磨がうまれ、励まし合い成長していく共同体ができると信じています。

日々、私はそのような教会になれることを祈っています。神の御国が宿り、心底、神の御心が行われていると信じられるような教会に。それぞれのクリスチャンが、お互いから元気をもらい、聖霊によって強められていると実感できる教会に。主イエス・キリストの弟子に日々造りかえられていると実感できる教会に。