教派に囚われないクリスチャンになりたい

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一つの真理を主張しているキリスト教に、なぜこんなにも多くの教派が存在するのだろうかと、疑問に思ったことはないでしょうか。聖書入門者が、混乱するのもうなずけます。管理人は、教派や教理に囚われないクリスチャンでいるのが神の御心だと信じています。もちろん、管理人はそれぞれの教理に自分の意見をもっていますが、それはキリスト教を分断するほどの大きな問題ではないです。たかが個人の意見に過ぎないわけですから。違った意見を持っている人がいたとしても、その人を裁いたりはしません。個人個人、違った意見をもって当然だからです。

キリストは分裂されないけど・・・キリスト教は分裂している

キリストは分裂されませんが、私たち人間がキリスト教を分裂させているのです。ある日、管理人が奉仕している教会の土地建物に興味があるベンチャー企業の社長が、教会を訪れた時、皮肉たっぷりに管理人に言いました。(この方はテレビにも出演したことがある、飲食業界では有名な人です。)「キリスト教もこんなに種類があるんじゃ、どれを信じていいかわからないよ。だから、俺は信じないんだよ」と。管理人は返す言葉がありませんでした。至極当然の理由だからです。キリストの言葉 ヨハネ17章20節ー21節を思い出しました。東西教会の分裂日本のプロテスタントの多数の教派

また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。(ヨハネ17章20節ー21節)

キリスト教は、3つの教理の解釈の違いで分断されています。その3つとは、「救いの方法、聖霊の働き、終末」です。聖書の翻訳においてでさえ、言い争いをしている人がいるのを見聞すると、非常にがっかりします。教派間で意見の相違で争っている間は、キリストの教えが広まるのは遠い話です。キリストが望んでいない事をしているだけです。

教派に囚われないクリスチャンとは?

管理人は、「キリストの教会」という小さな群れに属していますが、だからといって、この群れの規則には縛られてはいません。事実、私たちの群れに教会規則のようなものはありません。聖書があるだけです。個人個人が聖書を読み、自分の信仰に責任をもつことができます。

また管理人は、たとえ素晴らしい牧師先生がいたとしても、その人の弟子になることは出来ません。その人も私と同じ人間です。罪人です。過ちも犯すでしょう。もし管理人がその人の弟子になってその人がこけたら、管理人もこけてしまいます。そんな危うい土台はありません。管理人の人生の師、人生の先生はイエス・キリストだけです。他は皆兄弟姉妹だからです。

パウロが、「霊的なわが子と考えていたテモテ」やコリントの教会の人々に、「わたしに見習いなさい」と言いますが、それはパウロがキリストに従っていたからです。管理人も、他のどんなクリスチャンからも、多くの見習うべきことがあることを認識しています。しかし、その人の弟子にはなれません。その人が管理人の人生の師になれないのです。

管理人は、また教派の特徴的な教理に縛られたくはありません。特にそれが人の意見でしかないのですから。なぜそのような人の解釈によって自分を縛るようなことをするのでしょうか。

キリスト教は3つの教理の解釈の違いで分断されていますと書きましたが、もし分断の原因を自分が作っているとしたら、主は管理人を何倍にも裁くでしょう。

ある教理において違う解釈をもっている教会メンバーがいても、管理人は気にしません。真理をまっすぐに解き明かすことが、管理人の責任だからです。もし間違ったことを教えたら、主は管理人を厳しく裁いてくださることを知っています。

あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。(2テモテ2章15節)

愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。(2テモテ2章23節ー26節)

また、各信仰者は、信仰の自由と責任を持つべきだと考えています。かといって、孤独なクリスチャンになるという意味ではありません。キリストは、キリストのからだという共同体を造ってくれました。そのからだの一部としてお互いに愛すこと、これが教会のミッションです。

はっきりとした啓示を受けたパウロは、諸教会の人々に手紙を書きました。その目的は、主の御心を伝え成長させるためでした。しかし、弟子たる者は、常に主の御心を求めていくべきなのです。だから、クリスチャンである弟子たちは、聖霊を頂いているのです。新しい契約下では誰も「主を知れ。主を知れ」と、他のクリスチャンに言う必要はないのです。(へブル8章11節)

また今でも主は、クリスチャン一人一人に(違ったニーズがあるからこそ)、それぞれの場合に応じて祈りに答えてくださっています。

だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。(ピリピ3章15節)

「偉い先生がいるから、この教会に行ってみよう」とか「この先生の弟子になってみよう」とお考えなら、再考をお勧めします。主イエスご自身が、聖霊をとおして、あなたに教えて下さるからです。次のページを参考に。