信仰の定義

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目に見えない神を信じる

「信じる」ことを聖書的なことばで言うと信仰です。見るから信じるのでは、イエスが教えている信仰とは言えません。では信じること(信仰)とは、どういうことなのか考えてみましょう。[sg_popup id=”6951″ event=”click”]ヘブル11章1節ー6節をクリック。[/sg_popup]


信仰の定義は、聖書が書かれた数千年も前から変わっていません。上記の聖句が書かれたのも2000年ほど前ですが、(聖書の成り立ちと正典も参考に)あえてこのように著者が書いたのには理由があります。[sg_popup id=”6952″ event=”click”]ヨハネ20章24節ー29節をクリック。[/sg_popup]


1世紀の時代の人たちも、目で見なければ信じなかったのです。 十字架における死から復活した後、イエスは弟子たちと話しをしていました。しかし、トマスという弟子だけが、復活したイエスと会っていなかったのです。その人は、復活したイエスを見るまでは信じないと頑なに言い張りました。それに対してキリストは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と答えました。私たち21世紀に生きる者たちにも当てはまる言葉です。


神を見たら・・・信じる?

よく聞くことばに「神を見ることは出来ないから信じない」と言う人がいます。 私もそのような一人でした。神の存在など信じていませんでした。自分自身が神であったのを覚えています。聖書は、科学的見地から信じられないという方もいます。または、キリスト教は単なる西洋の宗教だから・・・宗教なんて何でも同じだから、ある特定の宗教を信じても無駄と考える人もいます。


それでは、私はなぜ信じるようになったのでしょうか。それは、イエスの言葉を吟味した時に、この方が言っていることは真実に違いないと確信を持てたのです。イエスは、神の存在を認めておられ、しかもイエス自身が神から遣わせられたと言っているのです。私はこの方を信じたのです。ですから神も信じることが出来たのです。さらに神の存在、知恵は、神が創造した自然からも読み取ることも出来ます。


私の友人は大学在学中、生物学と化学を学び、「神がいないことを科学の力で証明することが僕の人生の目標だよ」と息巻いていました。 (今でも生物学の研究を続けて、数十年も前に博士課程を終えています。)その人が、私に「神の存在を物理的に証明してみてくれ。そうしたら信じるから」、と言い続けていたのを昨日のように覚えています。 しかし、約1年間聖書を学んだ結果、彼は遂にイエスを信じクリスチャンになったのです。 さらに生物学を学ぶにつれて彼の確信は強められ、天地万物の存在は偶然ではなく、デザイナーなる創造主なる神様の手によるものであると学者の立場から信じているのです。


信仰は、0%か100%かでは語れない

ある人が次のように言いました。「100%信じる自信がないので、クリスチャンにはなれない」と。人間として生まれた者の中で、常に100%神を信じていた方は、イエス・キリストだけです。わたしたちが、自分自身の信仰を語る時、0%か100%では語れません。気分は高揚している時は100%信じていると言い切れるかもしれません。それでも時には、神の力や知恵を罪人である人間である以上、私たちは疑うことがあるのです。


聖書の中に出てくる人たちも、100%の信仰を持っていませんでした。現実社会の悪を見た時に、「なぜこのような事が起きるのか。神は悪を見過ごしなぜ黙っているのか」と神の預言者たちも嘆いていたのです。神の計画自体を疑っていたのです。クリスチャンになった人が、すべて最初から100%信じているなんてことはあり得ません。最初から聖書の教えをすべて理解しているかというと、そんなことがあり得ないのと同じです。


信仰は育つ

むしろ、信仰は育つと考えるのが聖書的だと思います。今思えば、わたしがクリスチャンになった時は、50%ほどの信仰しかなかったと思います。神はわたしに試練や困難を与えて、信仰を育ててくださったと信じています。


「自分は何%キリストを信じているだろうか」と自問自答してみましょう。10%でもかまいません。何に疑問を持っているか、天にいるキリストに、祈りその質問をぶつけてみましょう。必ず何らかの形で答えを与えてくれるはずです。


聖書を読んで信仰は育つ

聖書は神の御言葉です。聖書は人間の知識を超えている不思議な書も参考に。人生の真理が書かれています。普遍の真理が語られているのです。わたしたちの信頼に値する言葉が書かれています。わたしも読者の方も、聖書から学ぶことは山ほどあるのです。


聖書を読み、神がどんな方であるかを知り、わたしたち人間が、どんな存在かも知ることが出来るのです。その真理を知り少しずつ信仰が育っていくのです。不思議な現象です。


経験を通して信仰は育つ

わたしたち人間は、人生の中で様々な経験をします。当然、苦しい悲しい経験もあるのです。しかし、そのような経験が、すべてネガティブに人生に反映するとは限りません。むしろ良くなることもあるのです。このような時、私たち人間は、舞台裏で働いている神の摂理を感じます。


信仰が育つのに、大それた経験は必要ありません。小さなきっかけかもしれません。創造主なる神によって守られている、と感じる時が必ずくるものです。その時、「あれ?おかしいぞ」と思うのです。神の愛に気づく時です。信仰が育つ瞬間です。

神への信仰と神に従うこと

神を信じる人は、信仰によって神の教えに従います。信仰によって人は、神に委ねて心からその教えに従うのです。たとえ、時にそれが無意味に思えることでも未来について何もわからなくても、人は信仰によって神の教えに従うのです。 これが信仰の実と言えるものでしょう。ただ単に、神の存在を事実として信じることは、「鈴木さんは東京生まれです」というような事を信じているようなものです。これは知性だけの信仰です。そこには、信仰の実がありません。 クリスチャンは心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、その人が与えられているすべての資質によって神を信じるのです。 そこには、神が必ず報いてくださるという神への信頼が必ずあります。イエス・キリストを信じる意味も参考に。

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