聖なる義なる愛なる神

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三位一体の唯一の神であり、創造主なる神はどのような方でしょうか。非常に重要な神の性質として「聖、義、愛」があります。それぞれの性質が、お互いに関連していますが、個別に検証してみます。まずは聖なる神から。


聖なる神

[sg_popup id=”6881″ event=”click”]イザヤ6章1節ー5節をクリック。[/sg_popup]この聖句から、神の聖なる性質に、2つの要素があることに気づかされます。

詩集グロリア

畏れ敬う方

第一に、聖書が教える神は、畏れ敬うべき方であり、すべての諸霊、神々からかけ離れた存在であるということです。古代中東の偶像礼拝の神々やギリシャ神話の神々が、その時の気分によって人々を祝福したり呪ったりすると信じられていたのに対して、聖書が教える聖なる神は、すべてにおいて正しい方であり、きまぐれで人を裁くような方ではありません。すべてを超越した方です。天地万物を創造された方であり、すべての万物を支配している方です。悪の根源であ悪魔、サタンをも支配している方なのです。


第二の聖なる神の性質は、すべての悪からかけ離れた存在という意味です。古代中東の神々、ギリシャ神話に登場する神々が、非常に人間的であり時々悪事を働くのに対して、聖なる神に邪悪は微塵もないのです。聖なる神は、永遠の神です。すべての始めであり、すべての終わりをもたらす神です。すべてを創造しすべてを終わらせる神です。


創造主なる神以外に神はいません。霊的な世界を支配している方はただおひとりです。神々と呼ばれるもの、悪霊の世界もすべてが、神の支配下にあるのです。[sg_popup id=”6884″ event=”click”]1ヨハネ1章5節をクリック。[/sg_popup]


聖書では、神は光にたとえられ、悪をもたらす悪魔であるサタンは暗闇にたとえられます。最初に読んだ聖句で、預言者イザヤは「神の栄光を見た故にもう生きる事は出来ない」と思いました。なぜでしょうか。神は太陽の火のイメージにたとえられるかもしれません。太陽の光、灼熱の熱さに人間は耐える事はできません。1分位、太陽をじっと見ていたら失明してしまうかもしれません。


灼熱の火が、金と不純物をより分けるように、聖なる神は裁きの日にすべての人々を裁きます。善人と悪人とをより分けるのです。そのすべての権威を聖なる神は持っているのです。

正義を求める神

聖なる神は、その聖なる性質ゆえに、神を信じる者にも聖を求めます。神は聖なる方ゆえに罪を嫌います。さらに神は義なる方ですから、その罪を罰するのです。「聖なる、義なる、愛なる神」の中でどちらかが、一方よりも大切であることはありません。神のすべての性質は等しく重要です。その3つの性質は、三位一体であり、お互いに補う関係にあると言ってもいいでしょう。つまり、神は聖なる愛によって人々を裁くのです。聖なる神は人間が犯す罪を嫌い、また人間をを愛するゆえに、人間を裁くのです。[sg_popup id=”6886″ event=”click”]申命記7章9節ー10節をクリック。[/sg_popup]


罪、神の教えに反する心、不信仰には必ずその報いが伴います。罪の結果を、私たちが遅かれ早かれ支払うことになるのです。しかし、旧い契約の時代には、憐れみ深い神は、いけにえという手段を通して神の民の罪を赦しました。ヤギや雄牛が、イスラエルの人々の罪を贖うために捧げられました。その血は命を象徴しています。その血が、人々の代わりに流されることにより罪は赦されたのです。


上記の聖句は旧約聖書に書かれていますが、「罪には必ず報いがある」という原則は、新約聖書においても変わりがありません。


神は、イスラエルのように律法で歩む人たちも、その他の人々のように良心に従って歩む人たちも、同様に罪の下にあると断罪しました。罪の報酬は死です。肉体的な死であり霊的な死です。霊的な死は肉体的な死の後に、神の裁きとしてやってきます。


義なる神 キリストの十字架

しかし、神は聖なる愛なる方ゆえに、人間に裁きを下すだけで終わらせませんでした。自らのひとり子である方を、キリストとしてこの地上に生まれさせ神の御心を伝えさせ、犠牲の人生を歩ませたのです。義なる神は、罪のない方、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとさせ、十字架につけいけにえとして捧げたのです。


旧い契約で行われたいけにえでは、完全に人々の罪を消すことは出来ませんでした。人々の良心を清める事は、出来なかったのです。なぜなら、いけにえを捧げた大祭司も罪人であり、自分自身のためにいけにえを捧げる必要があったからです。人類すべての罪を贖なうためのいけにえは、完全無垢であるイエス・キリストの犠牲が必要であったのです。


まとめとして、次のことが言えます。

  • 究極の犠牲は十字架での死です。キリストは神の裁きとして十字架につけられた
  • ここに神の正義が行われたと言えます。

愛なる神

天地万物を創造された神は、人間を神のかたちとして、神に似せて創造されたました。神のかたちとして人間は、神のように考える力を持ち、判断力を持ち、何かをつくり出すことが出来る創造力も持っているのです。この人間を神は何よりも愛しておられます。親が自分の子供を愛する以上の愛を、神は私たち人間に日々注がれているのです。ところが、人間は自らの自由意志によって罪を犯し、神の教えを背き、神の存在と権威さえ認めないようになりました。それでも神の愛は留まるところを知りません。この愛は、全人類に善人にも悪人も注がれているのです。神は、究極の愛をイエス・キリストを通して示されました。


キリストに示された神の愛

[sg_popup id=”6888″ event=”click”]ヨハネ3章16節ー21節をクリック。[/sg_popup]

人間たちが命を得るために、罪の呪縛から解き放たれるために、イエス・キリストは天からいらしたのです。そしてこの方を信じる者は誰でも罪の赦しをうけ、神の御国へと入ることが出来ると約束されているのです。イエス様は世の光として来られました。悪を照らし出し、私たちが悔い改めるようにと、イエス・キリストは愛をもって真理を語ったのです。

無償の愛

日本には古くから「お返し」という慣習があります。結婚式、御葬式、近所でのお付き合い、親戚のお付き合い、それぞれ何かをもらったら、それ相当のものを返す慣習です。結婚式でも何でも物をもらった方は、返すのが儀礼としてまかり通っていますが、返さないと「礼儀知らずだ」とレッテルをはられます。物をプレゼントする方も、何かお返しがあるとつい期待してしまうものです。逆にお返しなど面倒だといって、そのような物を受け取るのが嫌に感じる人もいます。 しかし、何の見返りも期待しないで親切は出来ないものでしょうか。見返りがなくても良いのではないでしょうか。主なるイエス・キリストは、無償の愛を教えています。敵をも愛す無条件の愛を教えています。持ちつ持たれつ、ギブアンドテイクの愛ではありません。無条件の愛で満たされた人間社会は、イエス・キリストによってのみ可能なのです。 今の世の中、お返しとしてお礼が返ってくるどころか、逆に騙したり騙されたりの騙しあいの世の中とも言えるかもしれません。詐欺は振込み詐欺だけではありません。大きな会社でも偽証、偽善、いろいろな嘘偽りが相次ぎ行われています。


それではこの三位一体の神が、人間とどのように関わっているのか考えてみましょう。 創造主なる神が私たちをそれ程、愛してくださっているとすればなぜ自然災害などが起こるのでしょうか。東日本大震災のような災害がなぜ起きるのでしょうか。人間を苦しめるのが、神のお仕事なのでしょうか。決してそうではありません。自然災害、不治の病といわれるような病気はすべて悪魔のわざです。しかし、自然社会の中で神が、人間に苦しみをもたらすような事を許容されているのです。悪魔は人間を苦しめるために、また神から人間を離れさせるためにこのような悪を行います。


人間が苦しみの中で、神の愛の大きさを気づく時があります。また自分の存在が、どれ程小さいものか気づく時があります。実はこのような苦しみは、私たちに神の存在や神の愛を気づかせる絶好の状況ともいえます。最初は「苦しいときの神頼み」かもしれませんが、それでも少なくともその人の心は真実の神の方に向いているかもしれません。神は私たちの一人でも多くの人間が、創造主なる神の権威を知りその愛を知って悔い改めるのを神は望んでいるのです。


神は、私たちが生まれた時から今までをすべてご存知です。私たちの生まれ育った環境や性格、髪の毛の本数さえもご存知なのです。神は天にいらっしゃいますが、遠く離れている方ではありません。私たちの心に常に語りかけようとしています。問題は、私たちがその声(耳に聞こえる声ではありません)に気づくかどうかです。

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