間違った聖書の読み方

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聖書を読もうと思い立って聖書66巻を通読はしたけれど、聖書をただ読むだけで終わってしまった人はいるかもしれません。心にも行動にも何の変化も起きなかったという例です。実際、「聖書を読みなさい。読んだ方がいいです」と奨められて、いざ読み始めてみたけれど、何の変化もないので途中で止めてしまったという人は、数限りなくいると思います。


確かに聖書の中には、聖書を専門的に学んだ方でないと、なかなか理解できない部分が含まれていることも事実です。だから聖書を読んで期待外れになったと感じるのも無理はないことです。聖書の読み方にも間違ったやり方があります。

義務遂行型

聖書をただ読むだけで終わる、つまり「今日の1章」を読んだらすぐに聖書を閉じて、その日の義務のように読み終えるのです。「義務の遂行」で終わる読み方です。あるいは、文字面だけ追って何を読んでいるのか、さっぱり理解していないのに、読み終わったら「今日、聖書を読んだ」という達成感を味わうだけで終わってしまう読み方です。一年通読をやると、このパターンにはまりやすいです。

思い込み型

を理解して真理を引き出すというより、自分の人生哲学や考えを真理に組み込んでいくよみ方です。この読み方では、聖書が教える真理はつかめないでしょう。

一教派に偏る型

思い込み型と類似していますが、この読み方の特徴は一教派の教理の枠組みにはめ込むことにあります。管理人は、聖書は一人ひとり自由に読むべきだと信じています。たとえ、一教派の教会に属していても、クリスチャンは聖書を読む時に、その枠組みに束縛される必要はありません。自由に、他の人の意見を聴くべきだと思います。

気まぐれ型

聖書を読み始めた人に多いパターンです。気が向いたら読む・・・しかし、気が向かないと、聖書はホコリをかぶったままになっているような状態です。これでは何も得る事はないと思います。聖書の何の書を読むにせよ、計画的に読むことが大切です。

論争に勝つため型

時たま、このような目的で聖書を読む方を、残念ですがクリスチャンの間に垣間見る事があります。キリスト教の歴史には多くの論争がありました。これはまぎれもない事実です。そのたびに聖書は論争の道具として使われてきました。論争に勝つためではなく、真理を見極めるために聖書を読むべきだと思います。

牧師の間に論争が起きた時に自分が正しい事を証明するために、「聖書から自分が正しい事を証明しようとする」現象を管理人は何回も見てきています。管理人自身も、このような事はしてはいけないと自戒しています。

有頂天型

「自分はイエス・キリストを知り真理をしることができた!」と少しでも有頂天になっていると、危険信号だと思います。このようなおごり高ぶりがある態度で聖書を読むと、決してよい事はありません。むしろ知識が人を高ぶらせるだけで終わってしまいがちです。「自分はまだまだ勉強不足。もっとイエス・キリストを知る必要がある」と謙虚な気持ちをもって読む必要があります。

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