控えめ、謙虚という美徳と聖書の教え

Spread the love

聖書は、謙虚な態度について何と教えているのでしょうか。日本人は謙虚な態度を好みます。また控えめな態度は、日本では美徳と考えられます。出しゃばらない態度は好まれます。それとは裏腹に、「出る杭は打たれる」と言われるように、日本社会では自己主張をする人は、(自分の意見を言っているだけでも)たたかれる場合があります。私はどちらというと古臭い人間ですので、礼儀をわきまえた控えな態度に好感をもってしまいます。

しかし、控えめな態度は、本当に謙虚な心をあらわしているのでしょうか。いつも、そうとは限らないのが日本社会です。

「見ざる言わざる聞かざる」の諺どおり、控えめであり余計なことを見ない、言わない、聞かないのが、日本社会でうまく生きにくための常道手段と考えられています。実際、その人が本心では何を考えているかは問題でありません。これは日本社会の常道手段であっても、人生の王道ではないと思います。

聖書の教え

一方、聖書が教える謙虚は、心そのものを指しています。

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 」 (マタイ5章3節)

このような方は、自分の愚かさ、自己中心的な考えに気づき、心砕かれ自分には何も誇ることがない、また自分自身で自分の心を満たすことが出来ない、と正直に言える人です。このような態度は、創造主なる神を信じることから生まれます。かといって、心が卑しくて、自己嫌悪になっているわけではありません。むしろ、その逆です。謙虚であっても自信満々です。神が祝してくださると知っているからです。実際にそのような祝福を、神から実体験として受けているからです。

人間は非常に複雑怪奇な生き物です。自己中心的な態度をもっていながら、そのような態度で接している自分が嫌いになってしまいます。自分はダメダメと自己嫌悪と自己否定をしている人は、逆に自己嫌悪という自分自身の判断に妙に自信を持っているのです。どちらにせよ、不健全な自己イメージです。

本当の謙虚さは、神と真正面から向き合った時に、徐々に生まれてくるものだと思います。キリストから学んで、その謙虚さは、初めて生まれてくるものだと思います。人間が本来持つべき謙虚さがあります。裏表のない謙虚さです。自分を自分以上に見せる必要もありません。虚栄心など必要ないのです。

謙虚であっても自分が思っていること、考えていることをハッキリいえる人間になれるのです。出る杭は打たれることも、心配する必要はありません。愛と親切心によって接するから、他の人たちもすぐにあなたの謙虚さを理解してくれるでしょう。


謙虚だけど自信あり

「不安はいっぱいあるけど、自分を鼓舞してその不安を打ち消そうとする。あるいは実際の自分よりも大きく見せようとする。そして相手の自信をなくさせようとする。」このような態度はスポーツの世界でなくても、私たち人間は多かれ少なかれこれと同じようなことをしているのではないでしょうか。スポーツで戦う前に謙虚になる人はあまりいません。マニー・パッキャオはクリスチャンだそうですが、このような態度で試合にはのぞんでいないように思えます。

健全なクリスチャンは、この世の基準で人生の戦いに挑みません。(クリスチャンも罪人であり罪ある世の中で生きているので、いつも健全な心をもっているとは限りません。)

私たち人間は、神によって創造された存在として生かされています。神が創造した自然があり空気があるから、私たちは生きていられるのです。命そのものが神によって支えられているのです。この認識があると自然に謙虚になってきます。宇宙を見る時に、宗教を問わず自分がちっぽけな存在である、と誰もが思うかもしれません。

さらに健全なクリスチャンは、自分が罪深い人間であることを知っています。自分の心を見る時に、邪悪な思いがあるのに気づかされるのです。他の人を自分のように愛せていない存在であり、時々、自己中心的でありなんて自分勝手な人間なんだ!と気づかされるのです。学歴など表向きなことに誇れることはあっても、内面に誇れるものはありません。だから謙虚にならざるえないのです。

だけど健全なクリスチャンは、自分が神によって愛されている存在であることも知っているのです。(実際、すべての人間は神によって愛されていますが、それにほとんどの人々は気づかないだけですが。)神の愛は、自分の罪よりも大きなものです。自分のどうしようもない自己中心的な心、悪の心、悪いことと知ってはいても自分を正当化する態度など、施しようのない自分に宿っている罪の心をも神の愛は超えているのです。「罪から離れてわたしの下で勇気と愛によって生きなさい」と神は私たちに言っています。

神を信じキリストを信じる人は、信仰によって自信を持てるのです。パウロという人が、彼が書いた手紙の中で次のように書いています。

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(ピリピの手紙4章13節)

また、ペテロという人はやはり手紙の中で次のように書いています。

だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。(1ペテロ5章6節)

クリスチャンは、この罪ある世の中では不思議な存在です。「謙虚であり自信ある人」だからです。

冒頭で述べたスポーツの世界の「虚勢や威嚇」は、健全なクリスチャンにはありえないことです。相手も、神によって愛されているからです。スポーツの戦いであっても、相手への敬いは忘れない謙虚さをもっているのです。

今日も素晴らしい日でありますように。

次のページも読んでみてください。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。

9 + eight =