仏教とクリスチャン-1コリント8章と10章の解釈

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以前、読者の皆様から「仏教式の冠婚葬祭、お葬式、お墓参りなどの日本文化へどのようにクリスチャンは対応したらいいのか」というご質問を、いただきました。この問題は、日本では避けて通れない道なので、検証してみる必要があります。聖書には仏教については書かれていませんが、偶像礼拝について書かれています。1コリント8章と10章を読みながら考えてみましょう。(仏教とキリスト教の違いについて書いている人がいます。)


仏教お葬式

1コリント 8章、10章の説明

もし聖書をお持ちであれば新約聖書1コリント8章、10章を読んでみましょう。

 

コリントの手紙の背景

古代コリントは、紀元前数百年前から栄えた貿易港をもった商業都市でした。アテネから西へ数十キロのところにあります。またコリントは、アテネと共に古代ギリシャでは、多くの偶像が造られた都市としても、ローマ帝国全土にその名をとどろかせていました。そんな所ですから、偶像礼拝は住民たちの生活の一部であったのです。つまりギリシャの神々の信者ではない人たちでも、普段の生活の上においても何らかの形で「神々を崇める宗教」に関わるざる得ませんでした。 たとえば、偶像に捧げられた肉が、食用の肉として市場で売られているという状態です。ギリシャ宗教を信じている者にとっては聖なる肉です。誰もがそのような肉を買う事が出来たのです。


コリントのクリスチャンたちもこの肉を買う事も出来ました。しかし、彼らはその肉を買うべきか迷ったのです。コリントのクリスチャンは、改宗する前にほとんどが偶像礼拝者だったと思われます。だからこそ、彼らの迷いもより強かったのかもしれません。 実際にパウロはコリントで宣教した時、何人かの異邦人たちはクリスチャンになったのです。その後、パウロは彼らと手紙をやりとりをして、彼らが直面している数々の問題について知らされ、コリントの教会へ手紙を書きました。偶像礼拝はその問題の中の一つで、パウロは主に8章、10章で取り扱っています。

1コリント 8章

パウロは、コリント教会における偶像礼拝の問題が、争いの種の一つになっている事を知っていたので、最初に警告ともいえる言葉でコリント教会の人たちを諭します。人は自分が知っていると思っている知識によって、おごり高ぶったりすることがありますが、パウロはこのような態度は愚かな者のすることであると言及します。むしろ愛によって人の徳を高めなさい、人の信仰を高めるようなことをしなさい、と言うのです。 コリント教会には偶像に関する限り、2種類のクリスチャンがいたようです。

  1. 偶像は単なる物質に過ぎず、偶像の神など存在しないと認識していたクリスチャン。
  2. 改宗前に偶像礼拝をしていて、改宗後もまだ偶像に対して多少の信仰を持っているクリスチャン。

実際に、パウロは偶像に捧げられた肉を食べても、何の得にも損にもならないと明言します。なぜなら、偶像の神などいないからです。しかし、このような知識をもっていないクリスチャン、または本当の神への信仰がまだ弱いクリスチャンは、まだ偶像の前では誘惑の罠にかかっていたかもしれません。信仰の強いクリスチャンが、偶像の宮で偶像にささげられた肉を食べているのを、信仰の弱いクリスチャンが見たらどうでしょうか、とパウロは問いかけます。当然、信仰の弱いクリスチャンはもっと迷ってしまうでしょう。さらに偶像礼拝に戻ってしまうかもしれません。 ですからパウロはもし他のクリスチャン、イエスのある兄弟姉妹につまずきを与えるのなら、偶像に捧げられた肉は決して食べないと断言します。

1 コリント 10章

10章では、パウロは偶像礼拝の罪深さを、主の晩餐に関連付けてコリント教会のクリスチャンに説明します。(注:9章は使徒パウロの自由について書かれています。10章もクリスチャンの自由について偶像礼拝と関連して書かれています。9章は8章と10章のつなぎの部分と言っても良いと思います。)

最初に、パウロは旧約聖書を引用して偶像礼拝の愚かさ、さらに神の裁きについて言及します。イスラエルの人々は、神の恵みを受けていたにもかかわらず、神の教えに逆らって滅ぼされてしまいます。その恵みの根源は、イエス・キリストである、とパウロは明言します。

彼らが神の裁きを受ける理由は、彼らが生ける神を礼拝していても、同時に偶像礼拝にふけっていたからです。 パウロは、「この例からわかるように偶像礼拝を避けなさい」と戒めます。生ける神は、私たちを主の晩餐に招いてくださいます。その晩餐と共に偶像を礼拝する事は、不可能な事なのです。クリスチャンがもしそれを行おうとすれば、神はイスラエルに与えた同じ裁きを、クリスチャンにも下すのです。

偶像礼拝は、悪魔によってだまされた人たちが、つくったものに過ぎません。偶像其のものには、何の力もないのです。それを拝む事が悪魔のわざなのです。悪魔は、偶像を拝む事によって、何か力が与えられるかのように人に思わせます。 市場で売られている肉の中には、偶像に捧げられた肉が含まれています。パウロは偶像に捧げられたかどうかは問題ではないと明言します。なぜなら、偶像はただ単なる石や木などといった物質に過ぎないからです。もし偶像に捧げられた肉と知ったら、自分の良心のためではなく、それを知らせれくれた人の良心のために食べてはいけないです。 クリスチャンがすることは何事も自由ですが、人の徳を高めるような事をすべきです。人のつまずきになるような事はすべきではないのです。

これまで理解した事を、仏教式のお葬式に適用してみましょう。クリスチャンが仏教葬儀に行く時

1件のコメント

  1. 私が仏教式のお葬式に参列しなければならなかった時は、お焼香をする番になった時には、焼香台の前に行って、焼香の代わりに、心を込めて、でも声に出さずに『残された方々への慰め』『その場にいるまだ救われていない方々の救い』を祈りました。これに対して、とても丁寧なお礼を言われたことが何度もあります。

    『形だけのことをしている』と思われなかったからではないかと思っています。

    私をクリスチャンだと知っているご家族の場合は、少し早い時間に行かせて頂き、心を込めて、慰めの気持ちを申し上げて、先程のことを先にさせて頂いて退出しました。

    大切なのは、形ではなく、心です。
    もちろん、その場だけではなく、お亡くなりになったお知らせがあった時から、残された方々の慰めと救いを祈ります。

    クリスチャンは、そのお葬式の場に、神様から遣わされて、その場にいる方々に、違う生き方をしている人達がいることを伝える使者なのだと思っています!!

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