最後の晩餐と主の晩餐の制定

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キリスト教に関連する絵画には、多くの有名なものがあります。その一つがレオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた最後の晩餐です。この絵画があまりにも有名なので、キリストが弟子たちといっしょにとった晩餐の本来の意味が、理解されていないように思えます。ここでは、キリストは、この最後の晩餐で何を教えているのか、また晩餐のパンとブドウ酒の意味は何かを、わかりやすく説明します。

最後の晩餐

出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/

この絵画は、15世紀ヨーロッパのルネッサンスの只中にいたダ・ヴィンチの創作であり、実際にこのような形で食事がとられてはいなかったでしょう。絵画の焦点は、ユダの裏切りにあるようにも思えます。新約聖書の福音書は、キリストがこの晩餐を弟子たちと共にした目的、その意味付けを詳しく述べています。この晩餐の焦点は、ユダの裏切りではなく、むしろキリストが制定した新しい契約の食卓にあると思います。最後の晩餐の時にいったい何が起きていたのでしょうか。その背景をじっくり説明します。

過ぎ越しの祭りの食事

イエス・キリストは弟子たちを呼び寄せ、過ぎ越しの祭りの食事の用意をさせます。この食事が「最後の晩餐」としてダ・ヴィンチが描いたものです。

そもそも過ぎ越しの祭りの食事とは、どんなものでしょうか。どんな意味があるのでしょうか。エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民は、主なる神によって奴隷から解放されます。主なる神が、エジプトの人たちに様々な災いを与えた時に、神は同じ災いをイスラエルの民には与えず、イスラエルを「過ぎ越した」のです。この神のわざをイスラエルの人々は、心に刻み決して忘れないために、毎年、(現在の暦で言えば3月から4月にかけて)神の過ぎ越しの祭りを行っていました(出エジプト記12章12節ー17節)。1世紀のユダヤ人たちも、この過ぎ越しの祭りの食事をとっていたのです。

この慣習に従い、イエス・キリストも弟子たちといっしょに過ぎ越しの祭りの食事を食しました。しかし、キリストは、過ぎ越しの祭りに新しい意味付けをしたのです。[sg_popup id=”6850″ event=”click”]ここをクリックしてその聖句を読んで下さい。[/sg_popup]

主の晩餐の制定:過ぎ越しの祭りの食事に、新しい意味付けをした

イスラエルの過ぎ越しの祭りでは、羊がいけにえとしてささげられました。キリストは、自らが十字架にかけられる前に、「自分自身がいけにえとして命をささげる」と預言しているのです。ユダヤ人が過ぎ越しの祭りで食べていたパンとブドウ酒に、キリストはこの時、新しい意味付けをします。[sg_popup id=”6862″ event=”inherit”]ここをクリックして、この個所の聖句を読んでみてください。[/sg_popup]

キリストの十字架の意味も参考に読んでみてください。

パンと血に関する4つの解釈

パンとブドウ酒の意味には、4つの解釈があります。簡単に説明します。最後に、管理人が理解しているパンとブドウ酒の意味を説明します。

実体説または全質変化説(Transubstantiation)

この学説は、主にローマ・カトリック教会に信じられています。カトリック教会の司祭が、主の晩餐を司りパンをとり「これはキリストのからだです」と宣言する時、パンは実体としてキリストのからだとなり、またブドウ液の杯をとり「これはキリストの血です」と宣言する時、ブドウ液は実体としてキリストの血になるという学説です。

共在説(Consubstantiation)

宗教改革のきっかけを作ったマルティン・ルターによって唱えられました。ルターはカトリック教会の実態説に反論します。パンとブドウ液の物質的な実体は、パンとブドウ液にままであるが、主の晩餐のその場に、主イエス・キリストが存在すると主張しました。「パンとブドウ液」と「キリストのからだと血」が、共に存在するゆえに、共在説と言われます。

象徴説(Sign as Emblems)

ルターと同じ時代に生きた宗教改革者であったヅヴィングリは、パンとブドウ液を象徴的意味で理解しました。パンはキリストのからだを象徴して、ブドウ液はキリストの血を象徴していると主張しました。

霊的臨在説(Christ’s Presence by the Holy Spirit)

ルターとヅヴィングリより数十年若い宗教改革者、ジョン・カルヴィンは、共在節と象徴説の中間点を取るような解釈を展開しました。パンとブドウ液をクリスチャンが受ける時に、聖霊によってキリストは、主の晩餐を頂くクリスチャンの間に臨在していると説いたのです。

管理人が理解しているパンとブドウ酒の意味

管理人は、上記に述べた伝統的な解釈よりも広い意味で、主の晩餐のパンとブドウ酒をとらえています。

キリストのからだとしてパンの意味

キリストが「このパンはわたしのからだである」と言った時、キリストはあくまで象徴的に意味合いで言ったと思います。このような例えは、キリストが言った他の多くの表現で使われています。パンが、実体的にキリストのからだに変わることはありません。しかし、キリストが割いたパンには、いくつかの重要な意味があると思います。

  1. キリストは、パンを割いて「分けて食べなさい」と言いました。実は、この行為にも重要な象徴的な意味があります。キリストによって割かれたパンを、いっしょに食べれば、教会に分裂などありえずがありません。クリスチャンは、キリストを分かち合っているのです。
  2. パンがキリストのからだであると同時に、教会もキリストのからだと例えられています。つまり、主の晩餐のパンをキリストから頂く時、教会内の他の人々、主にある兄弟姉妹も覚える事ではないでしょうか。主の晩餐は個人的なサクラメントや礼拝の行いではなく、共同体の礼拝の形と管理人は解釈しています。キリストのからだである教会にいる兄弟姉妹であるクリスチャン同士が、お互いに受け入れ合い愛し合い、一致してパンを食べるように命じていると思います。
  3. キリストは、「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言っています。主の晩餐のパンも、命の力あるいは命の源的な意味で使われていると思います。
  4. 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」とキリストは言いました(申命記からの引用です)。物理的なパンではなく、キリストから頂くパン、つまり霊的な栄養な源であるキリストの御言葉によって生きていく事を、クリスチャンは教えられています。

キリストの血としてのブドウ酒

杯に満たされたブドウ酒にも重要な意味が隠されています。

  1. ブドウ酒は、キリストが十字架で流された血を象徴しています。
  2. 旧約聖書によれば、血は命の源を象徴しています。ゆえに、旧い契約のもとでは、人々の罪のために、毎回、羊や山羊がいけにえとして捧げられたのです。新しい契約のもとでは、イエス・キリストのたった一度の犠牲によって、罪が赦されているのです。
  3. ブドウ酒が満たされている杯にも、象徴的な意味があります。杯は、祝福の杯として用いられる時もあります(1コリント10章16節、詩篇116篇13節、詩篇23篇5節)。同時に、主の晩餐では、杯は神の裁きまたは怒りを象徴していると思います。キリストは、弟子たちに「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか」と聞きます。この2つの質問は、十字架の死を象徴しています。
  4. それぞれの関連個所を読んでみましょう。[sg_popup id=”6864″ event=”click”]イザヤ51章17節[/sg_popup]、[sg_popup id=”6865″ event=”click”]マルコ10章35節―40節[/sg_popup]、[sg_popup id=”6866″ event=”click”]マタイ26章36節ー46節[/sg_popup]
  5. キリストは、私たちの罪のために十字架を負って、罪のためのいけにえとして死にました。同じキリストは、私たちに言います。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。つまり、クリスチャンが、主の晩餐の杯からキリストの血を象徴したブドウ酒を飲む時、十字架を背負って生きていく事を改めて覚える時だと、管理人は信じています。

補足としてブドウ酒かブドウ液かについてですが、1世紀のユダヤ人は、ブドウ酒を使っていたことは確かです。過ぎ越しの祭りの食事においては、水でうすめてブドウ酒を飲んでいたという記録も残されています。私たちの教会では、ブドウ酒ではなくブドウ液を使っています。

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