救いのセカンドチャンスってあるの?

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地獄に仏という言葉があるように、死んだ後、人は悔い改めれば救われることがあるのでしょうか。死後のセカンドチャンスを主張する先生もいますが、その反対にまったく否定する先生(1)まったく否定する先生(2) もいます。さてどちらを信じたらいいのでしょう。「この先生が言っている事には正当性がある。聖書的な教えである」とどちらの支持者も言うに違いありません。どちらにも非常に熱心な支持者がいます。クリスチャンの牧師先生と呼ばれる方の間で、このような意見の食い違いを読むと、思わず「主は何と思っているんだろうか」と私は天を見つめてしまいます。

久保有政牧師先生のセカンドチャンス論主要サイト:http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/seiseco.htm

どちらの主張も、それだけを聞いていると確かに説得力があります。しかし、それを鵜呑みにして、どちらか一方を「これが真理である」と結論付けていいのでしょうか。

ここで書くことは、セカンドチャンスの学説に対しての反論を目的としてはいません。むしろ、自分自身のための学び、検証として書いています。最初に、人間の聖書解釈の枠組みについて考えてみます。その後に、セカンドチャンスに関して私の理解を書かせていただきます。最後に、セカンドチャンス論について私の感想と批評を書かさせていただきます。


人間の聖書解釈の枠組み、パッケージ

人間の聖書解釈の枠組み、パッケージ

福音を商品に例えて考えてみましょう。クリスチャン牧師は、福音と言う商品を売ろうとしています。しかし、牧師もただの人間です。自分の聖書解釈に矛盾がないように、自分のすべての解釈をきれいな箱にパッケージとして入れます。残念ながら、自分が所属している教派によってそのパッケージの箱が違います。福音と言うまったく同じ商品を取り扱っているのに、強調点や解釈が違うために違った箱に収められます。いろいろな色のいろいろな形、たとえば正方形、長方形、台形、三角形などの箱に収められます。

完成された商品ですので、一見すると矛盾などないように思われます。しかし、違った教派の人からは、矛盾だらけに見えるのです。これはお互い様ですね。

聖書の教えには必ずと言っていいほど、2つの観点があるように、私には思えます。例えば、箴言26・4‐5。一方で、愚か者の愚かさに従って答えるなと諭されていますが、他方、愚か者の愚かさに相応しい答えをしなさいと諭されています。

自分の聖書解釈を証明するために、一つの聖句を引用しても必ずその解釈を反する聖句があるものです。そこで何とか矛盾がないように箱に収めようとするのです。

たとえば、「主イエス・キリストは、過去、現在、未来をご存知の神である」という主張は、「主イエス・キリストは、肉体をもった100%我々と同じような人間であった」という事実と、どのようにバランスをとればいいのでしょうか。キリストの神性と人間性は、4世紀の論争の争点でした。キリスト教史では、神の支配と人間の自由意思も、大きな論争の争点になりました。人間には、100%完璧に聖書を説明することは不可能ではないでしょうか。

私が持つ「神の教えのイメージ」は、「白一色の円球」です。どこから見ても360度同じ形に見えます。すべてを支配したもう神は、聖なる義なる愛なる神です。どこか尖がったところあるかというと、どこにもないパーフェクトな円球です。色も白一色だから、どこから見ても同じです。私たち人間が組織神学を作ると、どこか尖がった所があるものです。どこか歪な形をしているのです。色も付けたりします。どこの教派の神学にもいえることだと私は思います。

人間が、パーフェクトに死後の世界まで、さらに神の裁きのプロセスを理解していると考えるならば、それはおごりではないでしょうか。久保牧師は次にように書いています。

私たちも人生のゴールである死後の世界について、はっきりとした真理を知らないと、今の人生そのものがおかしくなってしまうのです。

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/yomema02.htm

死後の世界をハッキリと理解しなければ、果たしてクリスチャンの成長は無理なのでしょうか。イエス・キリストが教える真理から離れてしまうのでしょうか。私は、そのようには思えません。

聖書を正しく理解することは大切ですが、私たち人間が考えるパッケージに神の御心と教えを収められる程、神は小さいお方ではないと思いませんか。

主イエスは、360度すべての観点から福音メッセージを教えました。聖書学者は組織神学という形でそれぞれの観点を説明しようとします。誰がどんな神学を解いても、主イエスのようには説明は出来ません。特別な啓示を頂いた使徒たちでさえ、福音メッセージを完璧に理解していたとは言えないでしょう。死ぬまで、主イエス・キリストの十字架の力を求めていたのではないでしょうか(ピリピ3・12以降)。

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