セカンドチャンスってあるの?

平和を実現する人
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地獄に仏という言葉があるように、死んだ後、人は悔い改めれば救われることがあるのでしょうか。死後のセカンドチャンスを主張する先生もいますが、その反対にまったく否定する先生もいます。さてどちらを信じたらいいのでしょうか。2者択一しかないのでしょうか。どちらも聖書を引用して、その意見の正当性を主張しています。

私は3つの理由で、どちらも信じていません。

裁きは神の領域である

第一の理由は、裁きは神の領域であるからです。私が「セカンドチャンスがある」といっても間違いですし、「死後悔い改めても無駄である」と言っても間違いです。旧い契約では預言者たちが、新しい契約の時では使徒たちが、神の裁きがあることを解き明かしましたが、実際、いつどのように神が裁きを下されるかは知らなかったのです。現代のクリスチャンも同様です。それをあたかも、神の御心をすべてを理解しているかのように話す先生方は、神の領域に入り誤った解釈を広めているのではないでしょうか。

わからない事は結論を出さなくてもよい

セカンドチャンスという概念自体、私には問題ありですが、一方で福音が死者にも伝えられたと示唆する聖句があるのも事実です。聖書の専門家を自称する人たちは、どんな質問にも答えられる、または答えられるべきと考えているかもしれませんが、わからない時はハッキリとそれを言うべきでしょう。「わからない」と言うのを恥じて、こじ付けで結論を出す必要はないでしょう。

空想話を追い求めるようなことは、論争を生み出すだけです。人の励ますことにもなりません。徳を高める事にもなりません。むしろ、クリスチャンの間に混乱を招くだけでしょう。

命をかけ強く主張しているからといって、その人の主張が正しいとは限りません。またどれ程長く学んでいる先生だからといって、その先生の主張が正しいとは限りません。正しい方は主なるイエス・キリストであり、神だけです。

使徒パウロは、テモテに警告しています。そのいくつかを読んでみましょう。

作り話(新改訳:果てしのない空想話)や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。(1テモテ1・4-7)

誰も健全な教えに聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話(新改訳:空想話)の方にそれて行くようになります。(2テモテ4・3-4)

冒頭で例として挙げた2つのグループの先生方は、非常に強い論調でご自分たちの教理の正当性を主張しています。しかし、実際、このような論争はクリスチャンを混乱に陥れるだけです。

キリストを信じた人も信じなかった人も裁かれる

信じた人は天国、信じなかった人は地獄という方程式の基に、一般的に神の裁きが語られているように思えます。しかし、実際は、信じた人も信じなかった人も神によって裁かれるのです。すべての人間は神の裁きの御前に立たなくてはなりません。その時に、一人一人にどのような裁きが下されるのかは、正直わかりません。「あるグループに属しているからあなたは救われる」、「あなたはこのグループに属しているから救われない」といった単純な方程式で、神の裁きは行われるのでしょうか。

「あの偉い先生が言ったのでそれを信じていました」という言い訳が、神の裁きの日に通じるのでしょうか。むしろ、クリスチャンは自分の信仰に責任をもつべきではないでしょうか。

結論

セカンドチャンス、死後悔い改めれば救われるという概念を、読者の皆様はどう思われるでしょうか。どちらの主張にもくみせずに、神にお任せするとは言えないでしょうか。裁きは神の特権事項です。それを罪人である私たち人間が、とやかく言う事ではありません。

ヨブ記にでてくるヨブの3人の友人を思い出します。3人の友人たちは、自分たちの主張が100%正しいと信じていました。神に代わってヨブを裁いていたのです。実はその傲慢な態度を神は咎めたのではないでしょうか。またヨブ自身もすべてを知っているかのように、創造主なる神に挑戦したのです。神は信仰の人、ヨブを戒めました。

クリスチャンは神のしもべです。自分の信仰(どんな教理を信じようが)が正しいと主張して論争など起こす必要はありません。むしろ人の徳を高めるために、愛の言葉を話すべきだと思います。

 

 

 

 

 

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時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた(ルカ22章14節ー23節)。