神の愛と人間の罪

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人間は罪ゆえに苦しみます。罪によって四方八方、自分自身を苦しめ他人を苦しめるのです。神はそんな私たち人間を愛しておられます。その偉大な愛をキリストは私たちに語りかけています。


悪事を行なえば他人を傷付けるばかりでなく、自分をも傷付けるのです。人間は罪によって罪悪感を持ち苦しみます。 また、人間は罪悪感に悩まされるのは嫌ですから、自分の悪事を正当化しようとするのです。嘘をついても嘘と呼ばず、その場を繕って嘘の発覚を逃れようとします。 電話でのセールスでは、自社の製品がどれほど良いかセールスマンは説明しますが、マイナスになる事はいっさい口にしません。 つい最近、あるスーパーマーケットで、通常では売られていない高い値段を書いて売り、 その数日後にその値段を消して値下げを行ないました。あたかも、すごい値下げを行なったかのような見せ掛けでした。このように、人間はお互いに騙されて生きていくのでしょうか。


イエス・キリストは、人間を罪の苦しみと神の裁きから救うために、人間として生まれ、私たち一人ひとりの罪のために死なれたのです。 この救いは、肉体的な欲望を満たすものでもありませんし、肉体的な痛みや病気からの解放でもありません。むしろ、霊的、精神的に満たされない私たち人間を、満たしてくれる救いです。 イエスを信じる者すべてが、永遠の死という裁きを逃れ、永遠の命を与えられるという救いです。


病人と罪人

罪ある世の中で私たちはもがき苦しみますが、その状態はちょうど病人と同じです。

 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マルコ2章15節ー17節)

病人はキリストを求める


私たちが病院に行く時はどんな時でしょうか。自分が健康だと思っている人は行きません。自覚症状が必ずあるはずです。同じように、自分が正しいと思っている人は、イエスの下に来ません。事実、すべての人は罪人です。神は、すべての人が救われることを望んでおられますが、脅して信じさせることはしません。 イエスが言っていることばの中に、「聞く耳のあるものは聞きなさい」ということばあります。 これは、神が私たちに与えている自由意志を表したことばです。イエスのことばを信じるか、信じないかは自由なのです。


国家の法律でも人を殺せば、(刑罰が軽減されますが)死罪に値します。しかし、神であるキリストは、殺人という罪を実際に命を取り去るという意味ではなくて、人の心を傷つけるだけでも死罪に値すると教えています。

 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5章21節ー22節)


この教えは旧約聖書では教えられていませんが、本来の律法の意味だったと思われます。人の心を少し傷つけるだけなら、小さな罪だと私たち人間は考えます。なぜなら、きっと日常茶飯事のように犯していることだからです。しかし、神の御心に、罪に大きいも小さいもありません。人間にとって小さい罪に思える罪であっても、すべて死罪に値するのです。


しかし、人間には自分の心さえコントロールできないのです。私たち人間の力や知恵で、この世から悪を取り除くことはできません。自分自身の内にある悪も取り除くことは出来ないのです。


私たち、罪を犯す者は、死をもって償わなければなりません。しかし、キリストが、私たちの代わりに死んだゆえに、創造主なる神の赦しを頂いているのです。キリストはこの死によって神に仕える、人に仕える意味をわたしたちに教えてくれたのです。偉大な犠牲の精神、無条件の愛を与えてくださったのです。


偉大な宗教家としてこの世を治めるのではなく、人を愛するとはどんなことなのか?を身をもってわたしたち人間に教えてくれています。

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