団体意識は日本人の強みと弱み

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日本人の団体意識と日本の世論の作られ方は、どのような関係にあるのでしょうか。団体意識は、日本人の国民性の良い面ではありますが、危険性も伴っているということを説明します。この危険性と共に、神のことばが与えてくれる知恵を考えてみましょう。

オリンピック競技に見る日本人の強み

2018年冬季オリンピックで、女子スピードスケートのパシュートで、日本は金メダルを取りました。夏季オリンピックでは、400メートルリレーで銀メダルを取りました。このように日本人はグループ、団体のなかで働くのが得意です。時間をかけて話し合い、みんなの総意を引き出し結論を導き出していくのが上手です。団体競技で強さを発揮するのも日本人の特性と言えます。

日本人の国民性の危険性

しかし、日本人のこの特性は世論の流れが作り上げられる時に、非常に大きな危険性を伴っています。世論が作り上げられていく過程、国民的総意が作り上げられる過程が非常に曖昧なのです。たとえば、その議論をリードしてきた人は誰なのか、誰が言い出し始めたのか、その総意がどのように出来上がったのか、結論の大元がはっきりしない曖昧な部分を残しつつ流れが決まってしまうことがあります。一度流れが決まると、誰も何も言えなくなってしまう、つまり「決まったことにはもう黙ってろ」となるのです。反論でもしようなら、「非国民」のレッテルを張られてしまうことも、あり得るのが日本という国です。会社や町内会などの小さな組織の中でも、このような現象は見受けられます。


いわしの大群などの魚を観察しますと、どの魚がリードしているのか分からない程、いっせいにある一定方向に泳いでいるのに気づかされます。非常に不思議な現象です。日本人には、誰がリードしているのかわからないけど、世論が出来上がっていくような国民性があると私は思います。

誰が本当にリードしているのか、わからない責任のエアポケットのようなものが、日本の組織にはありがちです。中にはトップダウンで意思決定をしている会社もありますが、そのような会社ではトップ経営者が創業者だったりするのです。でも一般的な組織では話し合いの中でみんなで総意を決めていくような風土が、日本にはあるのではないでしょうか。

1939年、大きな流れの中で日本は第二次世界大戦に入っていったのです。戦争に巻き込んでいった張本人は誰でしょうか。時の首相でしょうか。それとも軍人でしょうか。未だ私の中では謎です。しかも大戦中にはこの戦争に疑問を呈することは、まさに売国奴扱いされかねない状況ではなかったでしょうか。大きな流れが一度決まってしまうと、反対意見さえ言えない風土が日本にはあります。少しカルト的なのです。

このように日本人の国民性の一つの特徴は、団体行動で物事を推し進めるところにあります。まさに「赤信号みんなで渡れば怖くない」の精神です。現在、経済的にも文化的にも宗教的にも、世界の隔てがなくなりつつあります。インターネットというメディア媒体が使われ、この世は情報過多の状態です。世界がグローバル化されたと言っても、国々の争いは終わるどころか、さらに激しさを増すと思われます。来年がどのような年になるか、予想もつかないような世界状況です。

このような時代だからこそ、日本人の団体意識という国民性が、良くも働く可能性もありますが、まったく逆に悪影響を及ぼす可能性も否定できません。

どんな議論においても賛否両論合わせて、私たち日本人が自分たちの国民性を理解してこの激動の時代を生きていくべきだと思います。世界情勢は、第二次世界大戦が起きた時と似てきたと考えるのはおかしいでしょうか。ヨーロッパでの世情不安、中東での紛争、またアジアでの紛争、あちこちで火の粉が上がっています。(2018年5月の時点で明るいニュースは、北朝鮮問題がもしかしたら解決するかもしれない?という期待がありますが、どうなるかわかりません。)大きな火事にしないために、火事の原因を作らないで火消しに回る役にためにも、日本人は自分自身の国民性を知るべきではないでしょうか。

聖書の言葉を読んでみます。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12章2節)

一人ひとりが神の御心は何かを求める必要があると、上記の聖書は教えています。この世の中の流れや世論に流されずに、神の御言葉によって自分の考えをしっかり持たなければなりません。

聖書には、人は自分の責任において、物事を選択していくという基本原則が教えられています。この意味での、「個人主義」は正しいと私は思います。しかし、グループ意識が強い日本人には、この個人主義の概念が伝わっていないのが現状でしょう。1960年代、1970年代、私が育った頃、日本では西洋文化(特にアメリカ文化)の影響で個性や自由が強調されていました。しかし、個性や自由には常に責任が伴うということを、日本人は忘れていました。(当時アメリカかぶれしていた私も例外ではありません。)日本では西洋の個人主義が根付きません。むしろ歪んだ自己中心主義になってしまっています。自己中は、他の人が見てなければ、公にならなければ何をやってもいいと言うような風潮になってしまっています。私は高速の出口でゴミをポイ捨てする人たちをよく見かけます。もし証拠写真でも残るようなシステムがあれば、日本人は決してこのような行為はしないでしょう。

日本には、責任の所在が明らかにならないようなエアポケットのようなものが存在します。政治、経済、一般社会のどんな組織においても、日本では説明責任が非常に曖昧になりがちではないでしょうか。(一番端的な例として、理研のSTAP細胞問題があるでしょう。)過剰なグループ意識が、個人の責任逃れの場、隠れ蓑になってしまうのです。あなたも、あなたの身の回りの組織において同じような経験をしたことはないでしょうか。

個人の自由と責任を表現している言葉があります。イエス・キリストの言葉を聞いてみましょう。

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。(ルカ9章23節ー25節)

イエス・キリストは、わたしたちに選択の余地を与えてくださっています。「もしあなたがついて来たいなら・・・」この言葉を聞いている人々、一人ひとりが自分の責任においてどちらかを選ぶのです。「他のみんながやっているから・・・わたしもやろう」とはいえません。選ぶ自由もあり選んだ責任もあるのです。キリストの言葉は個々の人に語りかけられています。ここにグループ意識が入る余地はありません。この個人主義と責任感が、日本においても仕事の場にも生かされます。

しかし、日本には、大きな見えない壁、文化の壁がまだまだあります。役職についている人が、ある組織の中で重大な決断をするときに、その人はグループとして決定した責任と自分の決断の責任を区別できているのか、日本のグループ意識の中では難しいでしょう。日本人も激動の世界の中で生きていく中で、食習慣や生活習慣を西洋化に変えていくのではなくて、考え方そのものを変える必要があるとわたしは思います。

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