恥の文化と聖書の教え

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恥の文化と聖書の教え

「日本は恥の文化」と言われて久しいです。最初にこの概念を提唱した人は、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトです。1946年に出版された「菊と刀」(1946)の中で取り上げられた日本人論です。日本人の恥の文化と聖書の教えを対比して、考えてみましょう。

日本人は善い事をしても悪い事をしても人の目を意識します。極端に聞こえるかもしれませんが、非常に無意識ですが、日本人は人が見ているから「やるやらない」を決めることが多いように思えます。


私たちの教会の裏に児童館があります。そこの庭には、以前、ゴミを捨てないように注意する小さな看板がありました。その看板には「ここはゴミを捨てる場所ではありません。人が見ていますよ」と書かれていました。この看板の殺し文句は「人が見てますよ」です。人が見ているからやらないように促しているのです。逆を言えば、人が見ていなければやってもいいよ、とも言っているように聞こえます。こんな小さな看板に、わたしは日本人の恥の文化を見出します。このように私たちの日本社会では、小さい子供の頃からこのような恥の文化の考え方が植え付けられているのです。

日本人は悪い事をした場合、「恥ずかしいことをした」を言ったりします。先に恥が人の心を覆うのですが、罪の意識はそこには希薄です。おそらく、後になって本当に悪い事をしたと思うのかもしれません。


わたしの町内会では春夏にお祭りがあります。ご祝儀を持ってくる人の名前と金額が、大きな立て看板に貼られます。大きな金額の方の名前と金額が、立て看板の一番上に大きく貼られます。金額が一番少ない人の名前と金額は一番下の方に貼られます。町の有力者の名前は、たとえ金額が多少少なくても上の方に貼られるようです。でもこの看板がなかったら、どれほどの人たちがご祝儀を持ってくるでしょうか。キリストは、わたしたちのこんな心を見透かしたかのように語ります。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」 (マタイ6章1節ー4節)

私たちは、どのようにキリストの言葉を聞いたらいいのでしょうか。自分に当てはめて考えてみましょう。けっして他人事ではないはずです。

キリストの言葉は、少し極端に聞こえるかもしれません。しかし、肝心要の教えは2つあります。第一に、神はいつも私たちを見ているという事です。


神と私たちの関係を、舞台監督と役者というイメージで考えてみましょう。神は、舞台を設定した方であり舞台監督でもあります。私たちは、舞台で演じている人たちです。自由に演じても良いという自由意思が与えれています。隠れて舞台監督は、愛のまなざしで舞台裏でじっと私たちを見守っているのです。

第二に重要なことは、私たちの動機です。神はいつも私たちの心の奥底を見ておられます。動機を見ています。人が見ているから善いことをするのでもなく、悪いことをしないでもないのです。実は、いつも私たちを見ている方は、人間ではなくて、神ご自身です。私たちの肉体的な目では見えませんが、神の愛のまなざしを心で感じる事はできる、と私は思います。

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